ENo.2367 鴉揚羽

生命の誕生が、祝福されるとは限らない

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　――生まれて初めて見た父は、憎悪に満ちた鬼の顔をしていた。

　鴉家。
　優秀な忍を幾人も輩出し、古くから里の中枢に関わってきた名家の中の名家。
　私はそこの娘として生まれた。

　父の名は蠍。母は蛍。
　父も母も優秀な忍で、特に母は、里の歴史を見ても一二を争うほどに優秀だったらしい。
　物心付く前から技を見に付け、齢が十のころには任務に就いていたと聞かされた。

　そんな他を寄せ付けない才能を持っていた母は、元は平凡……平凡以下の生まれだったのに、父に見初められ鴉家に嫁ぐ事になった。
　その際に随分と揉めたらしいけれど、父が強引に話を通したのだそうだ。

　そして母は、私を妊娠する。

　父は喜んでいたのだそうだ。
　自分と蛍との子なのだから、優秀な子が生まれるだろうと。

　けれど、そう喜んでいられたのも短い間だった。

　母が、体調を崩したのだ。
　体が弱いわけではなかった。けれど、幼い頃から酷使し続けた体が、妊娠の負担に耐えられなかったのだ。
　父は私を諦めるように何度も言い聞かせたそうだけど、母は断固として首を縦には振らなかった。
　それから暫く経って、私が産まれた。

　そして、母は死んだ。

　たった十六年。
　まだ少女だった母さんを、私が殺したのだ。

　私は父の手で育てられる事になった。
　けれど、愛情を感じた事は一度も無い。
　その代わり私に与えられたのは、過酷な修練と父の憎悪だった。

　物心がつく以前……それこそまだ歩く事もままならない頃から、私は父の「教育」を受けていた。
　体を強化するための投薬に始まり、耐性をつける為と、死なない程度に毒を飲まされる毎日。
　自分で歩けるようになってからは、それに加えて忍になるための修行が始まった。

　五歳の頃、父に初めて褒められた。

　その年の誕生日、私は父に子犬を与えられた。ムラマサと言う名前の子犬だ。
　父の手によって屋敷から出ることも許されなかった私にとって、はじめて出来た友達だった。
　父の厳しい修行も、苦しい薬も、痛い毒も。全部終わればムラマサと会えたから、遊べたから耐える事ができた。
　私はムラマサと一緒に、三年の時間をすごした。

　八歳の誕生日。
　父はまた、私に誕生日プレゼントをくれると言った。
　父に連れられて庭に出て、私の目の前にあったのは。
　逆さ吊りにされたムラマサだった。

「ムラマサは毒を飲んだ、もう助からない」

　殆ど鳴き声を上げる事すら出来ないほどに衰弱しているのが見て取れた。
　父は呆然とする私に刀を渡し、「ムラマサを殺せ」と言った。
　そんな事、できるはずが無かった。私にとって、ムラマサは唯一の友達だったのだ。

　殺せない。

　はっきりと口にしたのを覚えてる。思えば、父に逆らったのはあの時がはじめてだった。
　父は「お前が殺さねば、あの犬はあのまま苦しみながら死ぬぞ」そう言った。それでも、私にムラマサを殺す事なんて出来なかった。
　けれど。父がそれを許すはずも無かった。

　突然父は、刀を持たされた私の手を掴んだ。
　そのまま泣き叫ぶ私をムラマサの前まで連れて行き、刃を、ムラマサの首へ押し当てる。
　それでも私は、必死に抵抗を続けた。父の力には適わないとわかっていても、つかまれた手を引こうと必死になっていた。
　だから突然、父が手を離したとき。

　私は思い切り、刀を引いていた。

　それから、父の「教育」は厳しさを増していった。
　死にかける事なんて毎日の事。
　毎時毎分、いつ死んでもおかしくない様な「教育」が続き、動けなくなるような大怪我も毎日のようだった。
　当時の傷跡は、今もまだ私の体に残っている。
　胸に、腹に、背中に。とても人に見せられない、無数の傷跡が残っている。
　けれど父はなぜか、私の手足、顔には傷が残らないように工夫していたようだった。
　父は後々任務に不都合が出ないようにだといっていたけれど、今思えば、アレはいわゆる、虐待のような物だったのかもしれない。
　でも、それも仕方のない事だったんだろう。父は、私を憎んでいたのだから。
　「蛍」を殺した私を、殺したいほどに憎んでいたのだから。

　それでも父は、私を殺さなかった。
　愛情なんかじゃ、絶対にない。私と父との間には憎しみ以外に無かったのだから。
　きっと父は、新しい「蛍」が欲しかったのだ。
　母の残した私で、新しい「蛍」を作ろうとしたのだ。

　気がつけば。
　私は、十歳の誕生日を迎えていた。

　新しい「蛍」は、産まれなかった。

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　ベッドの上。
　私は天井を見上げて横になっていた。

　……静かだ。

　夜が明ける直前の、澄み渡るような静かな時間。
　ただぼんやりと寝転がっていた。

　こんなに気を抜いたのは何時以来だろう？　お陰で少し、くだらない事を思い出してしまった。

　寝返りを打つ。
　体が重い。随分と深く眠っていたらしい。
　二度寝がしたくなる気だるさを感じたのははじめてかもしれなかった。

　……元の世界では、私の命を狙う人間が沢山居た。
　私の周りには敵ばかりで、僅かにでも気を抜いてしまえば殺されかねない、そんな毎日だった。

　けれど、ここには。
　わざわざ私を狙うような人間はいない。

　だからといって気を抜いて良い訳ではないけれど、それでも今までと比べたらずっと楽だった。
　不思議な気持ちだ。こんなに落ち着いて、安心していられるなんて。
　けれどきっと。私がこうして気を抜いていられるのは、命を狙われることが無いから、それだけじゃない。
　少しだけ壁の向こうを気にして、私は起き上がった。

　こうしてゆっくりと休んでいられるのも今日だけだ。
　明日からはまた旅をすることになる。

　少し、体を動かしてこよう。

　すぐ近くに森がある。体を動かすには丁度良さそうだ。
　準備をして、部屋を出る。
　廊下を歩きながらなんとなく、三つ並んだ部屋をながめた。

　もっと、もっと強くなろう。
　今すぐは無理でも、いずれ必ず。

　あ、そういえば。

　階段を下りようとして、少し立ち止まった。
　ええと、こういうときなんて言うんだっけか。
　――あぁ、そうだ。

「……行ってきます」

　はじめて口にした言葉は、ちょっとだけ照れくさかった。