ENo.1093 蔵鉄鎮馬

とある世界のとある国、とある町のとあるビル。
とある壮年の探偵が一人……暇を持て余していた。

「……」

スラックスに白いYシャツとサスペンダー。
第１ボタンは開けて、袖は肘まで捲くられている。
事務所の机とは言え些かラフな格好だが……暑いのだ。
経費の削減を言い出したのは自分とは言え、
冷房の設定温度を上げると流石に暑い。

「………」

既に何度手に取ったか分からないデスクの上の朝刊を再び手に取る。
１面の記事をなんとなく斜め読みして、椅子の背凭れに体を預けた。

暇なのだ。
探偵事務所なぞ繁盛しても世間的によい事ではないが…お客はこない。
夏休みに入ってからと言うもの、町の人間は家族ぐるみで避暑地へ……
商店もあちこちに休業期間のお知らせが張り出されている。

家族で旅行、か…と心の中で唱えてから、
何処にいるとも知れない子供達の事が頭を過ぎり小さく溜息をつく。

パサッ、と放るように視界を覆っていた新聞をデスクに投げると、
ひらけた視界に妻の背中を改めて見つける。
パソコンに向かって、ひたすらエクセルと格闘しているようだ。

「……コーヒー、いいかな？」

小さく息を吐いてから、その背中に声を掛ける。
黒髪の後ろ頭がコクンと傾げられて、キーを打つ音が止まった。

「はいはい」

昼前から長時間同じ姿勢で作業していて体も痛いのであろう、
んー、っと伸び上がると事務所に備え付けの簡易キッチンへ歩いていく。
今は世間的にも夏休みで、雇っている事務や受付の人間も休暇中。
お客もあまり来ない事務所で彼女は、妻は律儀に毎日仕事をこなしている。
労いはするものの、とてもとても頭が上がらない。
そして…妻は子供達のことを口にしない。
最初こそ心配そうであったが、自分の“大丈夫”と言う言葉を信じてくれたのか
子供達の事を信用しているのかそれっきり…
むしろこの二人だけの状況を楽しんでいるような素振りもある。
まぁ、それはそれで自分も嬉しいのではあるが…

「はい、どうぞ――」

「あぁ、有難う…根詰めるなよ？」

コーヒーをデスクの端に置くと、妻は「ええ」と微笑んで、
自分のカップを手にパソコンの前に戻っていった。
キーを叩く音をBGM代わりにコーヒーで一息入れ、
邪魔をしないようにそっと立ち上がる…
行き先は勿論、喫煙ルームだ。

ブゥウウン―

自動扉をくぐると、部屋の主を待ち侘びた様に分煙装置が起動する。
胸ポケットから煙草の箱を抜き、蓋を人差し指で開けて一本抜き出す。
分煙装置の上の箱から適当な百円ライターを取り出して…
少々覚悟を決めてから火を着ける――無事に着火できた。

――つい、先日だがカートンで煙草を買った際に貰った百円ライター。
この箱に入れておいて何気なく着火ボタンを押し下げようとしたが…
…押せなかったのだ。
それどころか、無理に力を加えようと親指を押し込んだら指が攣った。
そのまま暫く一人で悶絶した事があるのだ。

確かに筋力は衰えたが、まさかライターのボタンが押せない訳がない。
そのライターをよくよく見てみれば…

“CR”

そう、チャイルドレジスタンス機能付きと書いてあったのだ。
最近増えてきたこの手の百円ライターだが、まさかあんなに硬いとは思わなかった。

苦い記憶に苦笑しつつ、無事に火の着いた煙草を肺一杯に吸い込んで味わった。
満足そうに紫煙を分煙装置に吐き出しつつ、ふと、床の隅に目が行く。
先日、洗面所でカマドウマを見掛けてから、つい隅に目が行ってしまうのだが…
洗面所で見掛けた物――

「ふむ…そう言えば」

遮光の為にかけてあるブラインドの隙間から、それとなく伺う様に通りを見下ろす。
正面のパン屋も隣の花屋もシャッターに休業中の張り紙…
そして、その２店舗の隙間の路地に――

「……煙草が少ないか」

ふと、思いついたように呟くと珍しく半分くらいしか吸っていない煙草を、
灰皿に幾分か強めに押し付けて消火する。
肺に残った煙を名残惜しそうに細く吐き出し、喫煙室のドアを足早にくぐった。

自分のデスクに戻るなり、がさごそと引き出しを探り、
背凭れに掛けてあったジャケットを羽織ると、最後に財布を持って椅子を仕舞う。

「ちょっと、死活問題が発生してね…」

「煙草？」

「ご名答、ついでに本屋の取り置き貰って来るよ」

「ん、行ってらっしゃい」

すかさず答える妻に肩を竦めつつ、事務所を後にした……

〜近所の商店街〜

「はいはい、こちらねクラガネの旦那さん」

奥の棚から妻の取り置き分の雑誌を持って現れるご婦人。
この行きつけの小さな本屋の店主である。

「えぇ、有難うございます」

雑誌を受け取ると、「奥さんによろしくね」の声を背に店を出た。
そのまま休業中のシャッターの群れを眺めながら、一応の目的地へ到着した。
煙草屋だ……シャッターは開いているが、店の出窓から人の姿は確認できない。

「おーい、涼んでねぇでいつもの１カートンくれよ」

確認できなくても、どうせ奥でだらけてるのはいつもの事。
間を置いてのっそりと白髪混じりの丸刈り頭がヌッと突き出てきた。
案の定、ランニングシャツに首からタオルを提げて団扇のコンボである。
こんなだらしない風体であるが、これでも昔は仕事の際によく世話になった男だ。
この町で事務所を構える時にも世話になっている。

「へいよぉ、そう焦んなってぇ…ほれ、お代は事務所にツケとくからよ」

だるそうに団扇をパタパタしつつ棚からJPSのカートンを抜いて差し出してくる。
そして、ついでに引き出しからガサガサと……

「ああぁ、いい、いい、ライターは要らねぇよ」

まさに憎き“CR”と大きく表示されたライターを取り出しかけた主人を制する。
もうあんな思いはごめんだ。

「OK、大将邪魔したなー」

「おう、最近また物騒だし、テメェも気ぃつけて帰んな」

油断も隙もありまくりのランニングシャツオヤジに言われたくはないが、
精々そうするよ、と貰った煙草を掲げて煙草屋を後にした。

煙草屋からUターンして、シャッター街と化した帰路の途中…
何かを思いついた様に閉まった店と店の間の路地の入り口へ歩み寄る。
表通りから少し影になったところにある灰皿が目当てだ。
流石に歩きながらは吸えないので、点在する灰皿が命綱なのである。

剥き身で持っていた煙草のカートンを足元に置くと、
胸ポケットの吸いかけの箱から一本引き出し口に咥える。

「あぁ、こんな所にあったんだ…」

通りからヒョコっと男が一人嬉しそうに入ってきた。
年の頃３０後半くらいだろうか、彼もまた灰皿難民の様である。
いそいそと煙草を取り出すと、フィルターを口に咥えて引き抜く。
そしてライターを取り出すが……

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　カチッ、カチッ…

「…あれぇ」

一生懸命火を着けようとするが、電子ライターのガス切れの様だ。
暫く格闘していたが、やがて申し訳なさそうな顔を向けてきた。

「あぁのぉ、すみませんが火をお借りしても……」

「あぁ、はいはいライターね」

男を見ていてまだ自分の煙草に火を着けていなかったが、
先に貸してやろうかとポケットに意識を向けて探ろうと――

　　　　　　　　　　　　「フッ……！」

ドスッ

男が短い息を吐いて踏み込み、二人の体が重なる。

「……！？」

火の着いていない煙草を咥えたまま睨み合う二人。
驚くような表情を浮かべたのは男の方だった。
密着した男の手にはナイフ……
その切っ先はジャケットを貫通してめり込んでいる。
その位置は確実に致命傷を与えようと肝臓を狙ったのであろう。

「その煙草だよなやっぱり…人ん家の周りに吸殻ポイ捨てしないでくれるか？」

ナイフで刺された体勢で目を細める。
しっかりと、袖口に仕込んであったデリンジャーの銃口は男の眉間に突きつけて。
内心ちょっと舌打ち――ナイフが刺さらなかった理由。
さっき買った妻用の雑誌をジャケットの下に仕舞っていたのだ。
身を引いて避け切ろうと思ったが、男の動きが早く遅れを取ってしまった…
心の中で雑誌の惨状に歯噛みしつつ、表情には出さず続ける。

「ここんところ嗅ぎ回ってただろう？誰の恨みだ、それともアンタ自身か？
　昔っから、俺に用事がある時は事務所に来いって口を酸っぱくしてるんだがなぁ」

「チッ」

これ以上ナイフを押し込めないと諦めて、飛び退る男。
距離を取った後に次の行動を迷ったように視線を動かす。

「どうする、やるのか？」

銃口を向けられた男は流石に分が悪いと踏んだのか、
ジリ、と後ろ足を後退させ逃げる素振り。
それを見て構えた銃口を下げて見送ろうと……

「けっ、ボスの恨み、いつか貴様も家族も皆殺し――」

そこまで聞いて眉間に一気に深い皺を寄せる。
妻や子供達に害なす輩を帰す訳にはいかない。

「――にしてｙ…うぇ？」

…キュンッ

男が口に出来たのはそこまで。
皆まで言わせる前に、音を立てて鋼糸が男の全身を締め上げ…

「これで仕舞いだ、短い縁だったな」

背中を向け煙草に火を着けると同時に、水平に伸ばした左手を振り下ろす。

背後にボチャボチャと湿った音を聞きながら、溜息のような紫煙を深く吐き出した。
頭を抱えたくなる気分である。
後始末――と、言っても後ろのナマモノの始末は依頼すればいい。
そう、問題は命を救ってくれた、このジャケットの下で傷物になってしまった妻の雑誌。

どんよりと、シャッター街の路地に紫煙が立ち込めた昼下がりであった。