ENo.1032 アズライト

〜Der professionelle reciter， der bestimmt wird　創〜

……11、12、13……14……じゅうご……。
力尽きて地に突っ伏した私に、ルクレツィアさんの叱責が飛ぶ。

「アズライト！まだ20回にも満たないのに力尽きてどうする！？
　通常の軍人は腕立て伏せ100回3セットは毎日やっているんだぞ！？」

……この叱責も、今日で32回目である。

私がルクレツィア＝ケーニヒスベルク氏に引き取られてから、今日で3日になる。
ルクレツィアさんは記憶も身元もない私を暖かく迎えてくれた。
屋根裏部屋を与えられ、衣食住必要なものは全て揃えてくれた。
浮浪者にとっては破格の待遇と言っていいだろう。

ただ、住み込むには条件があった。
てっきり住み込みの使用人になるのかと思っていたが、
何故かルクレツィアさんは『身体を鍛える』事を条件に出してきた。
それで準備運動から始めてみたら、この顛末である。

確かにルクレツィアさんの特訓ｊは厳しいが、
問題があるのはあきらかに自分の身体能力の無さであった。
これでもまだ成長した方で、初日では腕立て伏せ10回もまともに出来なかった。
一体私はどうやって今まで生きてきたのか……考えてみても頭が痛い。

たいした運動はしていないが、息が上がってきた。
流れ落ちた汗が両手に纏わりつくので、私はしばしの休憩を願い出た。

「……ルクレツィアさんは、何故私を鍛えようとなさるのですか？
　3日やってみましたが、私には肉体労働は向いていないのではないかと思うのですが……。」

こんな事を言えた義理ではないが、私は純粋な感想を述べた。

「正直俺もそう思う。お前はどう考えてもこんな訓練より本読んでる方が似合うってな。
　お前を悪く言っているわけじゃない、訓練以外にも手にマメが出来るほど基礎練している事は分かっているんだ。
　ただ人間には向き、不向きがある。少なくともお前にゃ力仕事は無理だ。
　……でもな、身体は鍛えてもらわねば困るのだ。あのお方がそれを望んでいるからな。」
「ソフィ・シュトレイン閣下が、ですか？」
「そうだ。何故だか知らないが半年でお前を軍人に仕上げろと仰った。
　あのお方の事だから、深い考えがあっての事だろう。だから少なくとも半年は、我慢してくれ。」

そう言うと、ルクレツィアさんは布きれを投げてよこした。汗拭き用だろう。

「俺はこれから軍議に出なきゃならねぇ。
　お前は真面目だから大丈夫だと思うが、いつも通りのメニューをこなしておけ。
　あとレイチェルを寄こす、掌に薬つけてもらえ。」

私の血の滲んだ掌に視線を移した後、ルクレツィアさんは上着をひっかけて中庭を後にした。

◆◆

少し経って、入れ替わるように中庭に入ってきたのは救急箱を持ったレイチェルさんだ。
彼女の名はレイチェル＝ケーニヒスベルク。ルクレツィアさんの娘さんで、市街の上等女学院に通う女学生である。

「また無理をしたのアズライト？血まめが潰れているじゃない！」

私の掌の惨状を見て、眉をしかめる。

「無理などではありませんよ、私の体力が少し及ばないだけですから。」
「全く、お父様もお父様よ！なんでだって、向かない人間に鞭を打つのかしら。
　アズライトは頭を使う方がよっぽど向いていると思うのにっ。」
「父君も好んで私を鍛えているわけではないのですよ。
　ソフィ閣下からの勅命あっての行動ですから、そんなに怒らないでください。」

そう私は苦笑したが、レイチェルさんはさらに眉間に皺を寄せた。
そして随分間を置いて、一言。

「……私、ソフィ様ってキライ……！」

かすかな声であったが、確かに聞き取れた。

「そんな事は口に出さない方がいいですよ。相手が相手です。」
「だって、理不尽じゃない！こんなに華奢なアズライトをお父様を使って痛めつけて！！
　私にだって、アズライトの向き不向きくらい分かるのに、あの人が分からない訳がないわっ。
　どう考えても悪意があるようにしか……！」

まだまだ言い足りないようだったが、
感情が昂ぶっている彼女にこれ以上口にさせると問題が起こるかもしれないと思い、慌ててレイチェルさんの口を塞いだ。

「……これ以上は駄目ですよ。父君のためにも、貴女のためにも……ね。」
「ごめんなさい……今、掌の手当てをするわね。」

レイチェルさんは無言になって包帯を巻き始めた。
あまりムキになってやるものだから、多少歪んだ巻き方になってしまったが。

「ふぅ、これで血が滲む事はないと思うわ。
　そうだ、これから書斎へ行かない？アズライト、本好きでしょう？」
「いやでも、私はまだ訓練中ですし……。」
「お父様が居ないんだもの、少しくらいサボったって分からないわよ。息抜きだって、ちゃんと必要なんですからね？」
「しかし……。」
「だーいじょーぶ！私が頼んだって言えば、お父様だって怒ったりしないわ。」

確かにルクレツィアさんは娘に甘い。甘やかしていると言っても差し支えない程に。
今まで彼女がまっすぐ育ったのは、奥様の尽力の賜物だという話だった。

「じゃあ決まりね！さぁ早く、行きましょう！アズライト！」
「え！？あ、ちょっと！？」

ささやかな抵抗もむなしく、私は引っ張られるまま屋敷の書斎に行くことになったのだった。

◆◆◆

本は確かに好きである。
元々からっぽな私には、知識のるつぼである本から吸収すべき事はあまりに多く、
1冊読むごとに自分の世界が広がっていくのを実感していた。

特に医療の本を好んで読みこんだ。何故だか分からないが、食指に引っ掛かるのが医療関係のものだった。
だが時々疑問に感じる事も多かった。
この本に書いてある事は間違っている、そう根拠もないのに思えたからだ。
自分は医療関係者だったのではないかとも考えたが、
この国において医療とは魔術医療が主であり、魔術の素養のない私には活躍の場があるはずもなかった。

薄暗い書斎の中でそんな事を考えていると、レイチェルさんが1冊の本を持ってきた。

「アズライト、この本お勧めよ。最近冒険活劇にハマっているの！」
「冒険活劇、ですか……。」

あまり読んだ事のない分野だ。
レイチェルさんが持っているのは、若者向けに書かれた幻想神話や冒険活劇が多かった。
私は首を捻りながらも、本の内容に目を通してゆく。

中身はたわいもない物語だ。
迫害されていた少女が、武器を手に取り戦いの渦の中に身を投じてゆく過程を綴っている。
異形の神の力を手に入れた少女、しかし同時にその力は彼女の命を蝕んでゆく。
それでも進む少女には、一人の少年が一緒に居た。少年は力も弱く魔術も実戦的なものは全く使えなかった。
少年は悩んだ。自分も少女を助けたい、足手まといなんてなりたくない。

そこで少年の出した答えは、敵の足を止める事だった。

敵を倒すのは少女に任せて、自分は神経毒を捲き一人でも多くの敵を行動不能にする。
力は足りなくても、素早く動けはほぼ安全に敵と相対する事ができる。

――僕は勝てなくてもいい。僕達が負けない事が大事なんだ――。

少年の一言が、私の胸に突き刺さった。
私とて腕力があるわけじゃない。ならば、力が無い者は別の戦い方をすればいいのではないか。
戦いの主役にはなれない。目立つ事もない。しかしもし、この少年のように敵を足止めする方法を見つけられたなら、
それこそが私の戦い方ではないか――そう思い至った。

「……すいません！この本ありがとうございました。
　私はこれから少々調べ物がありますので、レイチェルさんは早めに切り上げてください。」
「え？え？どうしたの急に？」

レイチェルさんは何が何だか分からないようだが、今は説明するのももどかしい。
私は失礼のない程度にレイチェルさんから離れ、化学に関する本をありったけ探し始めた。

To be continued......