ENo.808 弥蛇山まり

　天を見上げる。どんよりとした曇り空だ。時折切れ間から光が差し込む。天の梯子、というのだと教えてくれたのは櫻太郎だった。エトロフでも時折――本当にごく稀にだが見ることが出来た。
　空は電線の黒く湾曲したラインで幾つにも分断され、入り口のない高層ビルに囲まれている。
　此処には誰もいない。
　このビルの中に人間はおろか、生き物はひとつもいない。

「何故ヒトが電脳空間にダイレクトした時に情報を光と認識するか判りますか、まり」

　振り返ると、長い黒髪に紅の振袖の少年のようなものがぽつんと在った。
　古びた木製の電柱、文字の剥げたポスター、赤い光が染め上げる景色の中に彼の姿が溶け込んでいる。は、と再び空を見ればオレンジとピンクで爛れた雲と、白と濃紺のグラデーション掛かったパノラマが広がっている。

「これがアウトサイドウォール……」
「既存の安全且つ安定したネットワーク、エレクトリカルゾーンの壁の外」
「どうしてですか、紅掛博士」
「光あれと神は言った――その実際の意味を考えれば自ずと判ることです。光が物体にあたることによってヒトはそれを認識することが出来た。光によって現れるものは現実であり、つまりは情報の集合体。光の下に現れないものは現実であるかどうか確認することの出来ない不確かな『現象』であり、妖怪であるとか神性であるとか、時代が下ればオカルトであるとか、そう理解するしかなかった。知覚の一つでしかない目に頼りすぎているといわれればそれまでですが、ヒトはその情報を最も信頼のおけるものとして扱っている。光は情報を与えるものであり、情報の氾濫する電脳世界は光に満ちたもののように錯覚されたのです。これはマジョリティの感覚というよりはそれよりもっと深い部分での共有認識と呼んでよいと、僕は思いますね」

　それでは此処はどうしてこんな風なのか、と控えめに問うと、竜胆は微笑んだ。

「此処を創ったものの原風景、思い描く理想の世界がそのまま反映されてしまっているものですから。つまりは僕個人の――手を加えるものが増えればより混沌とするのでしょうが、今はまだ雛形に過ぎませんし」

　すぐ横を、大きな異形の魚が横切っていった。尾鰭がネオンサインのように光る。天は何処か遠くへ消え、足元の白い砂を色の抜け切った蟹が這う。

「この中で君たちはこれまでより自由に発展する。君たちの一部分であるキベルネテスウイルスも此処で生まれ、今も変化し続けている。まれへの道は見つかったでしょう？」
「博士の仮説に基き、ワタシが前に受け取ったと推測される信号の痕跡を此処で探し現在逆探知を行っているところです。進行状況は順調で……けれどワタシの理解の範疇を超えているというのが正直なところです。サイバネティカル空間の性質が、良く解りません……」
「君たちdoll-oidであれば何れ理解が及ぶようになりますよ。基本的には臨月天光のイントラネットに過ぎないのですから」

　重い水で澄んだ声はくぐもり、何処か遠くからぐわんと響いてくるように感じる。自分の意識までが散漫になってゆく気がして瞼を伏せると、海のイメージはす、と掻き消えた。と同時に、どうやらアウトサイドからも弾かれたようで、ゆるゆると目を開くとそこは何時も通り、シェオル溶液越しの普通の世界だった。溶液に浸かったまま接続した所為で妙なリアリティを感じたのだろうか。まりが人間であったならばきっと大きく息を吐きたいところであるのに違いない。
　固定チューブを外して水面に浮き上がる。

　イキモノ、生物とは一体何を以ってしてそうと定義されるべきでしょうか？

「え」

　だが、此処には誰もいない。