ENo.772 マタル・ユイ

呼ぶ声が聞こえる。蠱惑的な声だ。抗うことのできない、声。俺はこの声を知っている。記憶の中にある、かつて、俺の中に一度、その耳に拾い上げた声。その声は俺を呼んではいない。ただ、確実に。その声は、呼んでいる。確かな指向性を持って、誰でもいいわけではない、助けて、と呼ぶ声とは違う、確かな。記憶の深淵から、感覚の周回の外から。脳の片隅がざわざわする。毛穴がぷつりと音を立てて粟立つ。物理的に聞こえているのかは、俺にとってはどうでもいい。ただ、俺の中から、俺を呼ぶのではない呼び声が聞こえるのであって、それだけだ。そう、俺はこの声を知っている。そして、この声は押し倒そうとしている。俺じゃない。俺は既に、そう二度、“押し倒され”た。俺じゃない。俺にはもう、コイツを受け入れる余裕などない。では、この声は？

考えた。文字で書くと一瞬の、記憶の迷路だ。『央室』の主。姿を見たこともないが、『央室』の声だ。皇宮の中心に配され、皇帝に最も近く在った部屋。俺が『西室』を城としていた時に聞いている。『央室』か。『央室』の主に選ばれたものなど、俺は知らない。俺の宮廷生活の中で一度たりとも見たことがないし、それは他の三室の特級宮廷託宣士であっても同じことだろう。そう、俺はこの声には押し倒されはしなかった。囁かれたことも。俺が『西室』付なのは、俺の生まれが西方領マシュリクだからであり、マシュリク候の手によって伸し上がったからだ。俺が火属なのも、そういうことなのだろう。…………ま、水属となった今では、『東室』に押しこめられるのか。何にせよ、俺がシャラザに戻ることは二度とないから、そんなことに辟易する必要なんてないんだが。

『央室』の声は、俺たちの中であればルスヴンに近い性質、世界からの呼び声なのだろうと思う。アッシュは火に絡め取られているが、アッシュに囁く声はかつての俺の精霊の声じゃない。恐らく、この呼び声も『央室』の主のものではないのだとは思う。同じような声がしていても、ルスヴンの声とも違うように。
あの部屋には、ふたつの主があると聞く。二人の託宣士がいると聞いたことはない。（そもそも、俺はあの部屋は空室だったと思っている）。光属と闇属。あの部屋が、この精霊たちが司るものは俺達の世界、夜の帝国ではあまりに特別すぎる。炎のない夜はあっても、闇のない夜はない。夜があるのであれば、何処かに光がある。それを路地裏の誰が手にすることが出来る？　俺は西の生まれだが、央の生まれのものはそもそもいないっていうのに。央にあるのは、皇宮だけだ。

闇の声だ。懐かしい、聞いたことのない、知っている声。俺の知らない精霊。俺の知らない託宣を下すもの。興味がないわけじゃない。押し倒されたくないわけでもない。もう三人目は無理だとしても、それでもやはり、あいつらの声は、俺達にとっては甘すぎる。中毒だといってもいい。もっと、と思う気持ちは属された託宣士なら誰でも持つと思う。
それでも俺の身体が知るのは、二人だけ。かつてと、今と。代償を払いながら、それでも俺は、今、水属の託宣士としてその声を聞く。

声。それは俺が、託宣を知るときの声だって同じだ。俺を蠱惑する声。それに抗えず、抗わず、俺はここにきた。この呼び声の主に導かれたのは3の世界。カードが示したのは『水宿る部屋』『炎灯す黒葬』そして、『語り部』。『語り部』。俺はそんなことを思ったことはないが、――四属に属されるものは、みな『語り部』と称されるのかもしれない。精霊に押し倒される俺たちと、あるいはこれから押し倒される彼と。俺は『語り部』ではない。それは彼女の、侯爵閣下の仕事だ。だが、託宣は謳う。この声に呼ばれるものも、『語り部』だと。水と炎が相対している。俺の過去と、俺の現在。あるいは俺の現在と、――。俺は『語り部』じゃない。そう、違う。少なくとも俺は、押し倒されたことを後悔はしていない。身を犠牲にしたとも、帝国の礎になったつもりも、何かを押し殺してきたわけでもない。俺が託宣士に、特級まで伸し上がらなければ、今こうしてアンジニティに墜とされることもなかったのだとしても、俺は何度となく、あの声を受け入れただろうし、そして何度となく、こうしてアンジニティにやってくるのだろう。俺が『語り部』たることがあるのであれば、それは、背中の烙印が語ることだけだ。だが、託宣は謳っている。本当は俺も知っている。語り部が、物語を語るものであるように、俺達もまた、　（文字はここで途切れている）