ENo.602 グレイス＝シルバースター

フェルフリクス歴12年　嵐月８日
（昨日分からの続き）

どうしてこんなことになってしまったのか。
どうして己れが、どうして妹が、
こんなに忌まわしい姿にならなければならなかったのか。
人は考えるまでもないことを、つい、考えこんでしまうものだ。
あの時ああしていれば。
あの時己れにもっと力があれば。
頭が回れば。小細工ができれば。
そんなどうしようもないことを、つい考えてしまう。

金髪の少女が奴隷商のもとに来てから、一月ほど経った頃。

「少女の買い手が見つかった」という話を、守衛達が話しているのを偶然耳にした。
耳にしてしまった。
そんなこと、聞きたくもなかった。
己れは労働を終え、いつになく苛々と部屋に戻り、
少女に何か話しかけられる前に眠りにつく。

数日後、そいつのほうから己れにその話を切り出した。

　“グレイス……
　　私、また別のところに行かされるらしいの”

その声は……不安に満ちていた。
己れは、

　“……そうか”

とだけ答えた。

二人の間に、気まずい沈黙が流れる。
……すると、それを横で聞いていたガリが、

　“なんだと。”

と、ただそれだけ口を挟んだ。
少女は、もう流石に慣れたのだろうか、

　“あなたともお別れね、シルヴェスター”

と、返す。いつの間にか名前まで聞き出していたようだ。
少女は困ったような笑顔を見せ、そして黙り込んだ。
シルヴェスターなんて立派な名前をもったガリは、相変わらずの無表情だが……
それからというもの、なにやらいつになく熱心に本を読んでいた。

女の奴隷の末路。
そのことを考えないようにすればするほど、頭からそれが離れなくなる。
気分が悪い。

どうして己れなのか。
どうしてあいつなのか。
どうしてもこうしてもない。
あるのはただ事実だけ。
己れ達が、弱かった。運が悪かった。そういう星の下に生まれた。

ただ、それだけだ。

いよいよ、その日の朝となった。
思っていた以上に少女が高く売れたようで、奴隷商はいつになく機嫌が良さそうだった。

（いつかあの土手っ腹に、刃を突き立ててやる……）

己れはまるで、視線で呪い殺すかのように、
守衛と会話を交わしていたそいつを、隅から睨みつけていた。

………そのときだ。
雑魚寝部屋の中から小さな悲鳴が上がった。

己れが部屋に戻ると、部屋壁際の定位置にいるガリが見えた。
そしてその前に座り込んで、顔に手を当てている、少女。
少女がこちらを振り向くと、そこには見慣れた顔はなかった。

少女の顔面に………『何かが張り付いていた』。

白い表面に、黒い模様のようなもの。
少女はぺたぺたと、戸惑っているようにそれを触る。

ガリの方を見ると……いつも持っている本を片手に、
朱い瞳が『いつになく爛々と輝き』、
よく見ると部屋の床が石で削られ、なにやら陣のようなものが描かれていた。

すう、と息を吸い、

　“実験成功だ。”

ガリはただ一言、満足気にそう言った。

そこで、騒ぎに気づいた奴隷商が間抜け面で部屋に入ってきた。
己れを見て、ガリを見て、少女を見る。

　“何をふざけているのだ……そんなもの、つけてどうする”

奴隷商が興味薄そうに呟く。
少女が、顔を手で触りながら……呟いた。

　“……とれ、ない”
　“何？”
　“これ、取れないよ……”
　“…………馬鹿を言うんじゃない”

巨体をのそのそ揺らしながら少女の目の前までいき、仮面を引き剥がそうと乱暴に頭を掴む。

　“いたい”
　“……おい……ッ　なんだこれ……！”

奴隷商の顔色が、みるみる青くなっていく。

　“……なんだこれは……なぜ取れないんだ！　おい！お前たち来い！”

守衛も呼んで、二人がかり三人がかりで外そうとする。
だが、『それ』は取れない。まるでそこにあるべき当然の姿として、
その仮面は、少女の顔に張り付いて剥がれようとはしない。

痺れを切らした奴隷商が、木槌を持ちだしてきた。

　“やむを得ん……売り物に傷をつけたくはなかったが……
　　このままでは売り物にすらならん！”

止めようとする己れは、守衛に押さえ込まれる。
商人は、それを躊躇いもなく仮面に振り下ろす。何度も何度も打ち付ける。
己れは何か叫んだような気がする。
少女の顔面に鈍器を振り下ろす。人間のやることじゃない！

　　　　ばきん。

仮面にヒビが入り、二つに割れた。

奴隷商がようやく安心したような顔をしたが……
その顔は、今度はぽかんと口を空けて少女の顔を見つめる。
仮面が割れた下に、もう一枚、同じ模様で同じ色の仮面があった。
………奴隷商がふと地面に落ちたはずの、割れた仮面を見ようとすると、
そこにはもう、破片すら残ってなかった。

わなわなと手を震わせる、奴隷商。
己れは状況が分からず、ただただ呆気に取られていた。

そして、奴隷商が叫ぶ。

　“誰だ………　　誰だこれを、こんなものを付けたのは！”

　“私だ！　　シルヴェスターだ！”

この機を見計らっていたとばかりに、高らかに名乗りをあげるものがいた。

ガリだ。

　“私がやったのだよ。オーナー。この私、
　　シルヴェスターが創りだした『呪』なのだ。フッフッフ……”

この功績に見合った賞賛を要求すると言わんばかりの顔で、堂々と奴隷商の前に歩み寄ったガリ。
やっぱり、こいつは頭がおかしい……。
奴隷商は、もうわけが分からないのだろう、水面に顔を出した魚のように、ぱくぱくと口をあけたりとじたりしている。

　“素晴らしいだろう？その名も、『外せざる仮面の呪』だ！思いつきで試してみたが、いやはやどうして、やはりこの、永久物質概念の構成は難儀なものでな？具体と抽象との切り分けを如何に実現するかが呪術師の腕の見せ所なのだ。一見、実在する仮面のようにしか見えんだろう？しかしこれは物質ではなく、概念なのだ。仮面という概念！それを物質のように見せる。だがそれは見えるだけで物質ではない、だからいくら剥がそうとして取れるわけもないし、破壊しても破壊したつもりになっただけの者をあざ笑うかのように、瞬きしたその瞬間に元通りだ！というのも、実際には戻っているわけではない、そもそも壊れていないのだ。オーナーあなた本当はその木槌を振り下ろしたつもりになっていただけなのだよ。フハハ！要するに幻術要素の強い呪であるな、うむ。これまであまり集中して学んだことのない分野であったため非常に参考となった。ところでこの仮面を構成している、モトとなる原理が気になるだろう？なあオーナーよ気になるであ”

ガリが奴隷商に殴り飛ばされた。

　“貴様は……自分が何をしたのか理解しているのか……
　　今すぐこの、呪いとやらを解け、でないと……”

これまで見せたことのないような、狼狽と怒りが入り混じった表情でガリを睨みつけていた。
ガリは、

　“解く……？おいおい、オーナーよ。貴方も呪術に関する知識が少ないとはいえ、
　　私の素性を知らないわけではなかろう？哀しいかな、革命後のこの世界に慣れすぎたのか？
　　我が一族が作りあげし『呪』に共通するルールを、忘れてしまったか？
　　この世界が『キルフェリクシア』となる前の、
　　我が一族が支配していたはずの世界の名……忘れたとは言わせんぞ！”

と訳のわからない妄言を高らかに答え、また殴られた。そのまま何度も殴られる。
あっけに取られていた守衛達の隙をついて、するりと抜けだすと、
己れは、ガリとデブの間に割って入った。

　“………何のつもりだ”
　“己れも加担した”
　“なに……？”
　“己れがシルヴェスターにけしかけたんだ！あいつが一人でやったんじゃない！”
　“き、きさまら……”
　“おいグレイス！これは私の研究成果だ、横取りしようというのか！？”
　“いいからもうお前は黙ってろ……”
　“きさまらあああああああああ！！！！！！！”

かくして。
そこに運ばれてきた少女。
後にコニベアを名乗ることとなった奴隷の少女は、
女奴隷としての価値を等しく損ない、誰かに売られていくことなく、
男の奴隷たちと同じ、肉体労働を強いられることとなった。

己れとガリの馬鹿二人はと言えば、
殴りまくられて、何日か飯を抜かれた程度の仕置で済んだ。
奴隷商人が比較的商売がうまくいっている時期だったからかもしれない。
多少なりの信用喪失は被ったようだったが……
仕入れ量に比べれば、些細なものだったのだろう。

それが、己れ達三兄妹の、
今思い出しても、とても幸せとは思えない、出会いだった。