ENo.431 阿柴いるか

【今回のお題はスノードロップだそうです】

　街までの道行きは順調だった。事前に魔女が下調べをしてくれたお陰だろう。深い森
に踏み入れてからも迷うことなく、ただ、黙々と前へ進む静けさだけが何時もとは違ってい
た。
　冬の森は喘ぐ。車輪の重みや義足の蹂躙を受ける度にかさかさと震えて、寒々しく咽ぶ。
しんと骨身を刺すように冷えた空気に世界が死んだかのような錯覚を受ける。目に見えない
壁が押し迫り、体を小さく潰していくようだった。
　いるかはその鎮痛な気配に耐えかねて何度となく荷車を振り返る。轍を刻みながらの揺れ
にあわせて、魔女の姿は陽炎のように見えた。銀髪が白い頬を擽り、吐く息は微細な罅割れ
を通る隙間風のように細い。また眠っているのかと声を掛けると、小さな返事が返される。

「ねぇイッちゃん」

「うん」

「道、こっちでいいんだよね」

「うん」

　返答そのものは胡乱だったけれど、いるかがそう尋ねる度に、イッカは重たそうに瞼を開
けて道を確認する。その様子から順路が間違っていないのだと確信するも、やはり違和感が
拭えなかった。
　しっかりしているようで、どこか抜けている。ふと目を離すと夢の底へ落ちている彼女を
知れば、危なげに思うのはいるかだけではないだろう。
　ただ、今はそれよりも不安定で、落ち着かない雰囲気に見えた。街へ残す距離を縮めるほ
ど、いるかが後ろを確認する頻度も増していく。それがここ二日ほど続いていた。
　無論、休息や食事の間にも、注意深く見ているつもりではあった。細々とした仕事に、珍
しく率先して手をつけるようにもした。見張りの番も多くの時間をいるかが請け負ってきた
し、会話の端々で何かにつけて、寒くないか、疲れていないかと尋ねていた。
　それでもやはり、どこかに油断があったのだろう。魔女の捉えどころのなさに、いるかは
慣れてしまっていた。肝心なときに助けの手を伸べてくれる彼女に、過度の信頼を寄せてい
たのは確かだ。親も老い、何時かは旅立つことをまだ気づけていない子のように。

「ねぇ」

　前を向いたまま、それまでと同じように声を掛ける。同時に背後で荷車の揺れる気配がし
て、車輪が木の根か窪みにとられたかと思った。それなりに上等なものを、元の世界から準
備してきたつもりではあったけれど、舗装されていない道にはやはり弱い。
　振り返る瞬間に、ああ、面倒だなと思う。力仕事は魔女に任せられない。そんな風に考え
ていたから、だから、いるかは実際に目にした事態を判断するために、少しの時間を要した。

　＊　＊　＊

　あたしがふとしたときに昔を思い返そうとすると、何時も同じ場面からの振り出しになる。
体に纏わりついて気持ち悪いシャツ、汗を吸って微妙に重たくなったそれを嫌がりながら、
身を捩って起き上がる。布団の上から辺りを見回して、視線を部屋の隅で止める。そこまで
の動きは何故だか妙にはっきりと記憶していた。
　広い部屋、窓のすぐ下に当たる角は薄暗い。そこにあの人が膝を抱えて俯いていた。
　今はもう、どうしてそうなっていたのだか理解出来るけど、そのときのあたしにはまだ、
イッちゃんの気持ちを知ろうとする――そう考えようとする知恵さえなかった。今だって、
それは少し怪しいものだけれど。
　ともかく、薄く平べったい、大して寝心地も良くはない布団から這い出して、同じように
部屋の隅へ向かった。何時もみたいに隣に並んで座る。そうしたかったのだ、という気がす
る。
　イッちゃんの目、向けられた視線を思い出すと、今も胸の奥の方が少しざわつく。その感
覚が、この場面が記憶に染みついている原因なのかもしれない。

「ねぇ、イッちゃん」

　彼女の隣に伏せられた絵本を見て、手を伸ばす。子供心に不安だったのだろう。傍に寄っ
ても、何時も以上に遠く思える距離感。あたしを見る瞳に映った言いようのない気持ち、み
たいなもの。そういったものを感じ取って、無理に、普段通りに振舞おうとしていたのかも
しれない。こういうのも、本当って言うんだろうか。

「ご本よんで」

　笑いかけてみて、ビクリと肩を震えさせる怯えた反応を見せられたから、気持ちが萎れて
いく。絵本を開いて、この文字はどう読むのだとか、この絵が好きだとか、もう何度も彼女
に伝えたことをしつこく口にする。そうね、と静かに返される声に苛立つ。自分がほんの少
し前、彼女の前で何をしたかも思い出せていなかったから、どうしてそんな態度を取られる
のか解っていなかった。
　感情に任せて床を叩く。何で、どうして、何時ものように優しく読み聞かせてくれないの
かと駄々をこねた。その音が思ったよりも大きかったからだろう、イッちゃんは余計に肩を
竦めて、まるで部屋の角にはまろうとするみたいに、その体をきつく壁に押し付けていた。
　違うんだ。怖がらせたいわけじゃない。でも、まだ小さなあたしには他に取れる行動がな
かったんだと思う。何度も床を叩くと、音と空気の震えを受け取ったようにイッちゃんの瞳
が揺れて、その目に涙を溜めていく。
　悔しかった。立ち上がって床を踏みつける。踏み叩く、といった方が正しいぐらいに荒々
しく。それじゃあいけないって、そのときに何となく解った気がする。だから考えた。一緒
に居るとき、彼女がどうしたら嬉しそうにするか、楽しそうにしていたか。
　ただ気持ちの向くままに動いていた動物みたいな子供から、少しは成長出来た瞬間、だっ
たんだろうか。
　部屋を出て――結局苛々したのは隠せず、どたどたと騒々しい足音を連れて――別の部屋
に、本棚から一冊の図鑑を抜き出して戻った。草や花を、イラストを添えて説明してくれる
子供向けのものだ。
　それを彼女の前で開いて、ぱらぱらとページを捲っていく。この花は綺麗だね。この草は
どんな匂いがするんだろう。そんなことを思いつくままに口にして、何度もイッちゃんの表
情を窺う。

「あ、これ！　これ、花壇にあるやつだ！」

　指差したのはスノードロップのイラストだ。前に、一緒に庭へ出たとき、現物を指差して
教えてもらったのを思い出す。花には、それぞれ言葉があるのだとも聞いた。希望や恋だと
か、そのときのあたしにはよく解らなかったけれど、

――いるかちゃんにも、たくさんいいことがあるといいね。

　そう思うことが希望なんだと言っていた。もう一つ、その花の言葉になっている慰めは、
泣いている子を撫でてやるようなものだと知っていた。これだ、と思った。
　また騒々しく立ち上がり、今度は外へ続く大きなガラス戸を開けて庭に出る。裸足のまま、
義足が汚れるのも構わず――元々気にする方でもなかったから――花壇に向かって、真っ白
な花を誰の許しも得ずに毟り取った。

――イッちゃんにも、たくさんいいことがあるといいね。

　同じ言葉を返してやろうと、あたしは上機嫌だった。慰めの花を渡せば、あの濡れた瞳も
元に戻るだろうと思ったのだ。
　だから、実際に花を手渡して、何だか複雑な表情をされてしまい、あたしはまた臍を曲げ
る。ぎゃあぎゃあと言葉にならない声で喚き散らすのを聞いて、すぐに孤児院の大人が駆け
つける。結局、その日の仲直りは上手くいかなかったんだ。

　＊　＊　＊

「イッちゃん……？」

　荷車の入り口から細い腕が垂れている。血の気を感じられない白い肌、頼りなく思えるほ
ど繊細な造形の指先は、まるで最初からそう作られた、馬車の飾りのようにさえ見えた。リ
ボンで結わえた銀色の髪が、その腕の傍でふわふわと揺れている。車輪が地面を踏み、落ち
た枯れ枝をへし折る音の間隙に、苦しげに萎む呼吸が抑揚を聞いた。全てが吹き消した直後
の蝋燭から立ち上る白い煙のように儚げで、いるかは思わず、彼女の頬の赤さに見入ってい
た。

「イッちゃん……ちょっと！？」

　は、と我に返るのは一瞬の間を置いてからになる。ただのんびりと歩を進める芋虫の頭を
両手で押さえ、力尽くで停止させ、タラップを蹴って荷車へ駆け上がる。抱き起こした魔女
は、教会で暮らしていた頃、冗談半分に負ぶってみたときよりも、ずっと重く感じられた。

【スノードロップを人に渡すときの花言葉は「あなたの死を望みます」ってWikipediaさんが言ってた】