ENo.136 エルヴィラ・コンラート

「はぁ……。疲れた……」
　あの出来事から数日後、エルは自宅へ帰るなりベッドへ倒れ伏した。
　家にはヴィラの姿はない。
　今日はバイトの日だから、というのが理由だけれども、その理由があるということがある意味ではエルに安堵をもたらしていた。
　理由なく家を空けていた場合、最近の彼女ならエルを装って結佳に会いに行くのではないかと考えてしまうからだ。

　あの日から、ヴィラの心は本当に結佳に奪われてしまったらしい。
　以前だったら自分から「エルの代わりに大学へ行く」などとは絶対に主張しなかった。

　連日大学へ自分が行くことのリスクは理解しているから今のところ自重してくれている。
　だからこそ――。
　今はそれ以上に問題なのが、あの日以降の結佳からのアプローチと、それに付き合わされるエル自身の状況である。
　ボディコンタクトも以前は軽いもので終わっていたのに、今はふたりきりになると結構ぎりぎりな域にまでいったりする。
　十八禁レベルにはあの日以来達してはいないのが唯一の救いだった。

　エル自身からの結佳へ向ける感情は、以前も今も変わらず「親しみやすい先輩」だ。
　別に結佳のことが嫌いになったとかそういうわけではない。
　だけど先日の一件で結佳が自分へ向ける気持ちを知り、それを露わにされるようになると、やはり戸惑わざるをえない。
　でも嫌いになれないからこそ、露骨なアプローチも振り払うことが出来ない。
　彼女の虜になったヴィラのふりを続けなければならない――そのことが、日々徐々にストレスに感じられるようになっていた。

　どうしたらいいの。
　天井を見上げ、エルは思考に耽る。

　自分自身が今の状況から脱するのに一番簡単なのは、やはり演技を止めることだろう。
　実は効いていなかった、なら結佳もがっかりするだろうけれども、数日経って効果が薄れた、ならまだ納得するかもしれない。
　ついでに効いている間のことは覚えていないとか言えば、これ以上アプローチをかけられる心配も（少なくとも当分は）ないだろう。
　けれど、一つ問題があった。無論、ヴィラのことだ。
　たとえ結佳が「エルには効いていなかった」という真実を知りアプローチを止めたとて――。
　それこそ本当に数日で効果が薄れでもしない限り、ヴィラが結佳に向けてしまった気持ちが消えることはない。
　効果が続いている限りはヴィラは、たまにでもいいから自分が大学に行きたいと主張することを止めはしないだろう。
　そうなると、どこかしらで矛盾が生じてしまう。

　もう一つの手段は、今の状況を続けること。
　これならば結佳もヴィラも幸福であり続けることが出来るけれども、代わりに自分は潰れていってしまうだろう。
　でも自分が精神的に潰れるということは、結局のところ二人の幸福にも終焉を齎すことになる。
　自分が大学に行かなくなれば結佳は悲しむし。
　代わりにヴィラが大学に行ったとて、知識のない彼女が成績的に留り続けられるわけがない。

　結局何か手を打たなければならない。
　しかし手詰まりになっていることも事実――。
　頭を抱えたその時、携帯電話からメールの着信音が鳴った。

　ベッドに寝転んだまま結佳が送ってきたそのメールの文面を読み――。
　読み終えてから少し経って、エルは勢い良く身体を起こした。
「……これしかない、ですよね……！」

　■

　その週の週末。
　郊外の遊園地に、結佳とエル――のふりをしたヴィラの姿があった。
　普通の男女カップルよろしく、ヴィラは結佳の腕にぴったりと抱きついている。
　見目麗しき女性同士、しかも両方共それなりに背丈があるだけあって、某ヅカっぽいカップルとして周囲に目をえらくひいていた。
　尤も当の二人はそんなこと全く意に介さず、幸せオーラ全開で闊歩していたけれども。

　そしてそんな二人の姿を、エルは人ごみに紛れつつ追っていた。
　バレないように髪はニット帽で、目は色の薄いサングラスで隠し、普段は滅多に履かない膝丈あたりのスカートを履いていた。
　エルが公私ともにパンツルックを好むのは結佳も知るところなので、ここまですれば気づかれることもないだろう。

　無論、ヴィラもエルがこの格好で尾けてきていることを知らない。

「え、デート？」
「そう、結佳さんからのお誘い」

　メールが来た日、バイトから帰ったヴィラにエルはそう言ってメールの文面を見せた。
　遊園地に行ったりご飯を食べたり、色々しないか――といった内容である。色々、の詳細は詳しく詮索すべくもない。
「折角だし貴女が行ってくださいよ。大学だとか気にしないでいられる機会ですし」
「言われなくてもそのつもりよ」
　言った傍からヴィラの表情は恋する乙女のそれになっていた。
　ついこの間までこんな表情を、結佳の顔で見ていた――などとエルは思ったけれども、口に出したら何だか妙な嫉妬を買いそうな気がしたので言わずにおいた。
　同時に、もし自分が今恋をしたらやはりこんな顔をするのかな、とちらりと思ったけれども。

　それはともかく、こうして二人の後を尾行してきたのは勿論今の面倒くさい状況を打破する為である。
　その為に、今日はある封印を解くつもりだった。
　エルとヴィラ、二人の分離の切っ掛けとなったあの島から出て、もう行うことはないだろう、とずっと考えていたこと。

　誰かに対して、手を上げること。

　その「誰か」が、他ならぬヴィラであることも含め――。
　正直言って気が重い話ではあるけれども、今の歪んだ人間関係を矯正するには、文字通りの力技を行わなければならないのは明白だった。
　ゲートをくぐっていく二人の後ろ姿を追って、エルもまた遊園地の中へ足を踏み入れていった。

　■

　ところで――。
　ゲート手前の売店の陰から、目の前を横切っていく結佳とヴィラ、そしてエルの姿を順々に見送っている男女の姿があった。
　ダークスーツ姿の男とは裏腹に、まだ高校生程度といってもいい背格好の赤髪の少女が身に纏うのは、深海のような色合いのフリルドレスだった。
　純粋にいい身分なのか、新手のコスプレか。
　いずれにしても居る場所には相応しくない格好であり、それはそれで一部の人々の目を引いていた。此方も、そんな衆目など気にしていなかったけれども。
「……アレですか、この世界に残ってしまった異分子、というのは」
「そうです」
　少女の問いに対し、男が肯く。
「残ってしまっただけならまだよかったのですが、何らかの切っ掛けを経て『β』が表の世界への侵食を始めました。
『α』は我々とは違う意味合いでそれを食い止めようとしているようですが、彼女の目的が達せられたとて我々の理想には遠いでしょう」
　正直なところ今の話を聴くまで『α』『β』がそれぞれ何を示すのか少女は知らなかったけれども――。
　話の内容、そして先ほど目の前を通過した三人――のうち二人の様子を見れば、何となく気づくことはある。
「結果的にαの幸福に繋がるのは気に食わないけれども――いずれにせよ、βを消す必要はありますね。
　糸【ストラグ】は、誰にとっても忌まわしき存在なのですから」
　少女がそう強い口調で言うと、「全くです」男は恭しく頭を下げた。

　一般にドッペルゲンガーと呼ばれるものは、自分のそれを見ると死の予兆であると言われている。
　そもそも都市伝説の一環だけれども――殆どゼロに低い確率ながら現実の現象として昇華されることがあった。
　それも、人為的に。
　少女たちはそうして生み出された異存在を【ストラグ】と呼んで忌み嫌っていた。
【ストリングス】に、本来のモノからかけ離れたという意味合いで【ラグ】を組み合わせた造語である。かけ離れつつも繋がっている為に、糸という言葉を使っている。
　生み出した者たちを許すつもりも当然ないが、未だ足取りは掴めていない。
　それよりも生み出された者たちを抹消し、世界の流れの歪みを最少に留めること――それが少女たちの目下の役割だった。
　同じ役割を持つ人間たちが集った組織――『管理機関』。
　少女――アガットはその、リーダーでもあった。

「まずは、観察です……。
　消すにもタイミングを見計らわなければ、世界を歪めてしまいますから」

　アガットはそう言って、背後の木陰に向かうべく踵を返す。
　そうして男を従えたまま、一旦その場から姿を消した。