ENo.1239 アッシュ・サフ

　途切れはしない闇のままに陽はのぼって朝がくる。暗闇ゆえに解かれた五感が茫洋とした明るみに吸いこまれ、かずかずの痕跡すら消え入る液体のなだれのように、落下したものが浮き上がる日向性は、循環する輪、もうすべてがまかされる。あのくらい深淵の恍惚も眩暈も、投影のために回遊する単独の鳥の羽ばたきも、狂れたまま遠退いて、狂れたまま見捨てられ、あなたと私の絡まりも事後のかすかな点と点、とても離れた小枝が折れる。死者も生者もあたたかな亡霊であったのだから、仮と狩を周遊しつつ、崖にたたずむ緊迫感が火と光と空を呼んで、それは、殺しあうことと抱きあうことが同値の場所。おそらく地より天に近く、私たちは陶酔した天使さえ隠し持ち、破壊や祈りに加担させ、そうして彼らを放蕩の欠片として、同胞の脳髄へ差し入れる。情愛が深ければ、相関ほど残酷な関係はないのかもしれない。全一者はきっとあなた。ついに永遠は偶発的な覚醒の承前となる。

（「狩るものと狩られるもの、または裸出する根の動と潜」／写本者：H）

　詩を書き写すのが好きだった。四方の世界の学者たちの哲理のあがきを書き写すことと同じくらいに。フィリオリビエでは誰もが己の興味に寄せて書き写すことを撰びとり、またいくらかは義務として配分される。いずれにせよ祝福されるのは厳密性だった。手のなぐさみとしても写本官が写した文字が誤りを宿したままフィリオリビエの書架に納められることがあってはならなかった。無垢な白い絹の服を穏やかに光る偶数個の二枚貝の釦に留めた校正官たちは二人一組に書き写された文字を音読した。一人が原本を読み上げ一人がそれを聴き取りながら写本を見返し、互いの目に映る文字が音を通じて正しく共有されるか校べ合うのだった。互いに精密に合一する二枚貝は校正官たちのシンボルだった。しかしまた原本と写本という二枚貝が重ね合わされるためには逃れがたくいくつものいびつな貝を破棄しなくてはならなかった。原本を一度で正確に書き写すことのできる写本官は少なかった。誰であれ人の書き記すものには必ずいくつかの誤りがあった。意味の上ではたとえ些細な差異であっても誤りを抱くことは写本の本懐を致命的に裏切っていた。のみならずそうした誤りのうちには少なからず原本に記された意味を手ひどく裏切るものさえあった。……校正官たちに意味は無論重要ではなかった。二枚貝の精密に合わさるよう誘導する機械的な厳密性がついに彼らの教条だった。それはまたフィリオリビエの教条でもあった。校正官たちの筆は刃のように鋭く写本の過ちを抉り出した。彼らには絶対の正義があった。二枚貝の客観的明証性の光に対立できる明るさはなかった。四足巨獣の硬質な骨でできた校正机はなめらかに漂白され手元を照らす強い人造の光はあざやかに、多くの校正官たちは背筋を正し直立して職務をなしていた。呪詛のように文字を読み上げる校正官たちの呟きで満たされた執行室ではいくつもの誤りが切り分けられ貝を整形していった。壁面に吸い込まれ切らずに残響していく呟きは亡霊のように立ち戻りかけながらやがて消えていくのだった。

　文字を書きながら視界に帳が下りていた。暗い闇だ。今は無事に常の俺の目と変わらず光を取り戻している。文字は無事に書けている。変わらない俺の文字だ。突如目が見えなくなったところで俺の書くことは傷つかない。とはいえ永続的に失うのなら困ったことにはなるだろう。視力の喪失は読むことがついに俺を見はなすことを……つまり新たな書き写しの可能性の喪失を意味するのだから。

　闇霊力が忍び寄り始めている。視力へ時折訪れる短かな暗黒として。属性霊は互いに親和しながら生体を蝕み物理に抗する方角から隔離する。属性霊者は物象のことわりにもはや健全ではあり得ない。脆さが忍び寄る。処刑として宿された火霊力は一般に風霊力と地霊力を呼ぶものだ。すでにして俺が砂浜に記す文字たちのあまりに早い散逸として風霊力は身近にあった。ペンからしたたるインクを揺るがせるいくらかの風向きを感じないこともなかった。地霊力の影は今のところ見えず、けれどそれよりも先に闇霊力が訪れたわけだ。視力の束の間の退去として。時と共に闇霊力の視界を支配する幅は増すのだろう。そうして俺の体を灼く火もまた燃え上がる。闇の中で明々と鮮やかにしかし痛みとしてだ。

　四年の歳月のうちに悪化を見せなかった属性霊が徐々に変容を始めつつあるさまは否応なく外的要因を疑わせる。世界の隔壁の破壊が事実か否かは兎も角俺の体は少しずつ属性霊による侵食を強めているようだ。どこにも繋がらない否定の世界アンジニティにあってさながらどこかへ流れていくもののあるかのように。刑はシジフォスのように永続するが進展はしないものと俺は世界律を見做していた。だがそうしたアンジニティの均衡は今や崩れている。「ついに永遠は偶発的な覚醒の承前となる」（写本者：H）。否定の世界の午睡を引き裂いた偶発的な覚醒は俺たちをどこへ流していくものか知れない。五感は茫洋とした明るみに吸いこまれている。この土地に二枚貝はない。そういえば引いた詩にはまた別の一節があった。「つねに光は失われる」。俺はなぜ今日の日にこの写本を始めたか？　なにを予感して？

　つねに光は失われる。目指すものの不毛な地を描きながら目指していて、無防備な鎧をまとい、私たちはなにものかへの動性の侵入物であり、静態的な注入物でもあり、契機はどのレベルにもなく、肉体のどの心にも至らない。ここではさまざまな痛覚が拡散し、獣の楽園を偽装しつつ、偽装を剥がすことの禁断の所作に酔い痴れ、あなたが噛んだ私の耳朶から血がしたたり、それはもう排泄と同じ、あてない昏睡のなかでは愉悦だけに埋もれゆく。

（「狩るものと狩られるもの、または裸出する根の動と潜」／写本者：H）