ENo.1032 アズライト

〜Der professionelle reciter， der bestimmt wird　無〜

ここに、運命を超えた或る男の話をしよう。

男は運命に殺されるのを拒んだ。自分の全てを賭けて。
そして男は血路を開いた。文字通り、その手で。
だが失ったものも大きかった。その大きさに男は耐えられなかった。

だから或る愚者は、男に優しく残酷な仮面を与えた。

男は全てを失った。だが、そこから男の新しい運命は始まるのである――。

◆◆◆

ソフィ・シュトレインが祖国に帰還したのは、1年ほど前の事であった。

1000人を超える従者を従え、旅から帰ってきた宰相を多くの国民が歓迎した。
何せシュトレイン家始まって以来の才媛である、国の宝と言っても差し支えない。
彼女の背には神聖ブランディッシュ帝国の命運がかかっている。

そんな彼女が休養もそこそこに、
腹心であるルクレツィア＝ケーニヒスベルクを執務室に呼んだのは帰ってきて半日も経たない頃だった。
流石のルクレツィアも枢要の事と察し、誰にも悟られないように気を使った。

「ソフィ様、休養も取られないとは何かあったのですか？」

いつもは礼儀正しい騎士団長も、挨拶を忘れる程である。

「ルクレツィア。内密に貴方を呼んだのは、頼みたい事があるからです。
　実際に現状を見た方が早いですわね、わたくしについてきなさい。」

そう言ってソフィは非常通路の扉を開いた。
緊急脱出用に使われた、王族や一部の公爵家しか使用できない、いわば城の迷宮である。
恐縮しながらもルクレツィアは主君の後に続いた。

いくつか階段を下り、フェイクと思われる回転扉を何度か潜ってある一つの煤けた扉に到着した。
木戸の痛み具合からも、長らく使われていなかったものと推測される。
ソフィは躊躇うことなく把手を叩いた。

「わたくしです。ルクレツィアを連れてきました。お開けなさい。」

その澄んだ声が辺りに響いたかと思うと、一時して内側から扉が開かれた。
ソフィが何事もないように入っていくので、ルクレツィアも後に続く。

そこで彼が見たものは、大怪我をしている少年がヒーラーの治療を受けているさまだった。
血で汚れた白い不思議な服を着たその少年は、意識がないらしくピクリとも動かない。

「……どうですか、怪我の治療は。」

ヒーラーに向かって、極めて冷静にソフィが問う。

「大方の怪我は治ったのですが、どうも右目だけは……。
　何か魔法的な呪縛でもあるのか、こちらの治癒魔法を受け付けないのです。
　この眼を手術できる医術が我が国にあればいいのですが、このままですと失明は免れません。」

曇った表情でヒーラーは答える。成程、右目だけがまだ生々しい傷跡を残している。

「そうですか。最善を尽くしているのでしたら、どうしようもありません。
　本来ならば死んでもおかしくはない状況だったのです、生きているだけ良しとしますわ。」
「そう言って頂けると幸いです……。」

ヒーラーは力なく項垂れた。状況を把握しきれないルクレツィアは、困った様子でソフィに問う。

「ソフィ様、この少年は……？」
「わたくしが旅先で助けた者ですわ。
　本来ならば別の世界の住人なのですが、故あってこの世界に連れて来なければならなくなってしまいましたの。」

別の世界の、住人？
聞きなれない言葉に、ルクレツィアは首を傾ける。

「ルクレツィア。わたくしはね、とある偽りで造られた島へ行っていたのですよ。
　そこでは多重に存在する数多もの世界からいろいろな者が招待されていた。この少年もその一人。
　今まであまり交流はなかったのですが、殺されかけた所をたまたま救ったのです。」

そう、あれは偶然だった。殺意を本能的に察知して、それを止めただけのこと。

「そして……連れて帰りました。放っておくと島の消失と同じくして死んでしまうでしょうから。」

ソフィの言葉が歯切れ悪くなった事をルクレツィアは聞き逃さなかった。
しかし、主が話したくない事を聞き出そうとする程野暮でもなかった。

「そうですか……しかし、どうするのですか？この少年を。
　このままでは片目だけで生活する事になるでしょうし、環境が違うこの世界でどう生きろと。」
「わたくしは貴方に頼みたい事があると言った筈ですよ。
　頼みたい事とは、この少年を引き取って育てて欲しいのです。」
「そだ……てる……？」

唐突な言葉に、口が塞がらなかった。
この少年は確かにまだ若いが、この国の基準で言えば成人してもおかしくはない。それを育てる？

「半年で使える人間に育てて頂戴。わたくしの近衛兵部隊に、彼も応募できるように。」
「『ナイツオブスカーレットラッシュ』の選考試験に、彼も参加させようと言うのですか！？」

ルクレツィアが驚くのも無理はない。
ソフィが本格的に国政復帰する記念に創設される近衛兵部隊、『ナイツオブスカーレットラッシュ』。
軍の中でも精鋭が揃うであろうこの部隊に、
どう見ても貧弱そうなこの少年を軍人らしく鍛えろなどと正気の沙汰ではないと言える。

「半年鍛えて、それでも軍人として使えないようでしたら見放して構いませんわ。
　元々手先は器用なようですし、一般市民としてそれなりに暮らしていけるでしょう。」

ソフィの口調は淡々としたものだった。

「……そこまでして、彼に拘る理由は何ですか？」

ルクレツィアは問うた。文武両道を地で行く彼女が、この少年が軍人に向かない位分からない筈がない。

「わたくしも頼まれましたから。彼の『保護者』を名乗る男に。それと、もうひとつ。」
「もうひとつ？」
「……それは、秘密です。」

そう言ってソフィは苦笑した。この主は一度口を閉ざしたものは二度と口にすることはない。
それを嫌と言う程知っているルクレツィアは、軽くため息を吐いた。

「それでは、せめてこの少年の名前を教えてください。
　うちで引き取ろうと思いますが、名前を知らないのは不自由で仕方ありません。」
「それも、今は言えません。　理由は自ずと分かりましてよ。この少年が意識を取り戻したら、ね。」

ルクレツィアは視線を少年に戻す。
右目を包帯で何重にも巻かれた少年は、何も言わないが呼吸の有無で生きている事は分かる。
そしてふいに、少年の左腕がぴくりと動いた。

◆◆

「……ここ、は……？」

かすんで見える半分の世界。
見知らぬ天井。見知らぬ壁。見知らぬ人間。見知らぬ場所。そして。

――私は、誰だ？

思い出せない。自分の故郷、自分の経歴、自分の職業、更には自分の名前さえも。
ただ大勢の人間が、自分を珍しそうに見ている。

「すいません……ここは、どこですか？そして私は……何者なんでしょう？」
「ここは神聖ブランディッシュ帝国の城内だ。お前はこちらの、ソフィ・シュトレイン閣下によって命を救われた。
　……本当に何も覚えていないのか？」

女性に付き添っていた大柄な男が、呆れたような声を出す。

「申し訳ありません、何も、思い出せないのです。自分の名前すらも。」

少年はそう言って俯く。顔面からにじみ出ている悔しさは、嘘を言っているとは思えない。
そんな様子の少年を見て、ソフィは一歩歩み出た。

「これは、貴方の胸元にあった手帳です。貴方なら文字が読めるのではなくて？」

それは、赤黒く汚れた小さな手帳だった。
ページを開くと、半分以上は汚れで見えなかったが文字を読むことは不思議と可能だった。

「……こうこうさんねん、と書いてあるような気がします……こうこう……。」

数少ない記憶のピースを辿る。この言葉は、確か自分が学生である事を示唆するものではなかったか。

「この手帳によると、私はどこかの学生だったようです。
　学校の規律について詳しく書かれている事からすると、まだ保護者の庇護の元にいたのではないでしょうか。」

少なくとも大人の通う専門機関に属していたとは考えにくい。
この手帳には、生活態度に至るまでこと細かに示してあった。大人にその必要はないだろう。

「しかし私の体格から察するに、そう幼くもないでしょう。多分ですが……歳は18くらいの気がします。」

ふと頭に18歳という言葉が浮かんだ。ならば、おそらく自分はそうなのだろう。
根拠はないが、少年は自分の無意識の直感を信じてみようと思った。

「そうですか。18歳でしたら、軍隊への入隊は十分可能ですわね。
　今から貴方をこのルクレツィア＝ケーニヒスベルクの保護下におきます。慣れない事は全て、このルクレツィアに尋ねなさい。」

ソフィは少年を見据えた。
とても軍人になれるとは考えられなかったが、あの男の言う通り運命が変わったのなら、出来る事があるかもしれない。

「それと、貴方に名前を与えます。これからはアズライトと名乗りなさい。それが、ここでの貴方の名です。」

それだけを言うと、ソフィはくるりと背を向けた。

「あの……！どこへ、行かれるのですか？」
「わたくしは多忙な身です。貴方の世話はルクレツィアに任せると言った筈。
　これからどうするかは、ルクレツィアからお聞きなさい。では失礼しますわ。」

ソフィはそのまま部屋を出て行ってしまう。
残されたのはルクレツィアと呼ばれた大柄な男と数人のヒーラーだけであった。

To be continued......