C644 學校
――寂れたあばら家に、男が一人、佇んでいる。
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このコミュニティは、主に江戸時代の牢獄・刑罰・医学の知識について難波馨庵が色々語るコミュです。
内容は明るいものではありません。
参加者の方が各々の出身世界・時代の雑学について語って下さっても構いません。
発言もPC・PL問いませんので御気軽に御越し下さい。
馨庵はキャラクター目線で喋りますが、たまに注として後世の時代の用語や雑学が入る事もあります。
どうぞ御楽しみ頂けましたら幸いです。
コミュニティメッセージ
PNo.644 難波 馨庵
からのメッセージ:
馨庵
「さて、前回は休んでしまってすまなかった。今回こそ牢内で蔓延った病について話そう」
馨庵
「と、その前にこっちだな。
「牢内で争いが絶えなかったのではないか」
これに関しては、率直にその通りだと認めざるを得ない」
馨庵
「ただ、牢内の風紀は完全に乱れているとも言い切れない。
牢内には牢名主が居たからな。それに従う牢役達もまた、牢の秩序を守っていた……というと何だかおかしな話だが、牢内に法はあったのだよ」
馨庵
「……。牢内の病についてだが、まず、牢に入った者で江戸だけでも毎年死刑は三百人以上にのぼり、獄中死した者に至っては年々千人以上にものぼった。
大坂では死刑百人・牢死三、四百人。京都が死刑四、五十人。牢死人二百人程度といったところだ」
馨庵
「また、江戸時代後期には、牢死者が驚異的多数に登った。
安政ないし慶応年間(幕末)には、年に千二百から二千人の牢死者が出た」
馨庵
「牢死者といっても、厳密に言えば牢死と――前にも言ったが、重病・正気を失った者が送られる場所の事だが――溜死(ためし)とに分かれる」
馨庵
「弘化元年(1844)と同二年の牢死と溜死の人数は、次の通りだ。
弘化元年…死者六百二十六人。うち牢死は百四十二人、溜死は四百八十四人。
弘化二年…死者七百六十人。うち牢死は百三十五人、溜死は六百三十三人。
弘化元年と二年の死者総数に占める溜死の数は80%。併せて「加役方掛」(火付盗賊改が投獄した)囚人の死者は八百一人だ。総死者数千三百九十四人の57%を占めている」
馨庵
「なぜここまで死者が出たのかについては、皆疑問を持つところだろう。それには、定員を遙かに超える詰め状態の投獄で衛生状態が悪化したこと、また、先程述べた「牢名主」というものの制度の悪弊の結果だと推測されている」
馨庵
「今回は数字が多く出て疲れたろう。まだ本題に入ってはいないが、今回はここまでとしよう」
PNo.660 五十里イコ
からのメッセージ:
イコ
「諍い・・・大なり小なり、秩序と決まり事は切っても切れない関係よね。囚人たちを納得させる制度を採用したのかな?」
PNo.1245 Z姫
からのメッセージ:
Z姫
「海底探索協会にも牢屋ってあるのかなあ……」
コミュニティメンバー
PNo.644 難波 馨庵
PNo.68 クロニカ・Y・ニールネイル
PNo.139 風郷 風璃
PNo.148 オクシアヌ・フランキスカ・ザガム
PNo.198 葵アリエ
PNo.321 叢雲
PNo.424 伽藍
PNo.428 エールステゥ・ヴルーヒゥル
PNo.660 五十里イコ
PNo.934 フラック
PNo.969 E-12
PNo.1128 クロイス・G・ノイマン
PNo.1131 エスワフル・ケレ
PNo.1245 Z姫
PNo.1249 天道あるみ
PNo.1264 ゑい
PNo.1290 みーくん
PNo.1339 ロウタ=パスフィールド