「先生…」


セリィおねえさんのエンブリオ——そのはずだったきつねさんのすがたは、いまはもうどこにもありません。
ほんとうに、そこにいたのでしょうか。

けれど、おねえさんのてにはたしかにネクターがにぎられています。
きつねさんからわたされた、ネクターが。
おねえさんはじっとネクターをみつめながら、ぽつりともらしました


「このネクターを、どうすればいいの…？」


それは猫にはわかりません。
でも、いまのおねえさんはすこしこころぼそそうなかおをしているようにみえました。




「……ロクと契約をしろ、ってことじゃないかな」



「えっ…？」


そのこたえをもたらしたのは、スチュおにいさん。


「ロクは純粋なエンブリオじゃない。半分は人間だ。
　普通のエンブリオの強制契約はネクターじゃ抑えきれないけど、
　半分だけのロクなら、ネクターを使った契約で抑えられるかもしれない」


たしかに、じぶんは、はんぶんがにんげん。もうはんぶんはエンブリオ。
にんげんのリクと、あくまのエンブリオのロクがひとつになって、まっさらになってできあがったじんかくがじぶん。


「たぶん、そういうことだと思う」


おにいさんは、そういってかおをそむけてしまいます。
でも、おにいさんのいうとおりにすればあるいは——？



「そんなことができるものかしら…？　たとえ出来たとしても…」


おねえさんは、ふくざつなかおで猫にめをむけました。


「契約…　だなんて。半分はエンブリオだといっても、ロク君はロク君よ。エンブリオじゃないわ。
契約で縛ってしまうなんて、まるで道具の様な扱いじゃない？　いくらそれで生命の搾取が抑えられるといっても…」


猫とスチュおにいさんをかわるがわるみて、うかないかおをしています・
おねえさんは猫をおもうからこそ、猫をものあつかいするようなほうほうにためらっているようです。

でも、もしこのままでいるなら、いずれおねえさんのいのちを猫がすいつくしてしまうかもしれない。
それだけは、ぜったいにいやだ。
それに——


『セリィおねえさん。ひととえんぶりおって、いろいろなつながりかたがあると小生はおもうのです。
いのちとちからをやりとりするだけじゃない。
おたがいをたいせつにおもう、いっしょにいきていくようなけいやくだって、きっと——』


猫のきもちは、すでにかたまっていました。


『おねえさんとけいやくして、きょうせいけいやくが…おねえさんのいのちをうばわなくてよくなるなら…。
小生は、おねえさんとけいやくしたいのです。』



「ロク君…　わかったわ」


猫のきもちをくみとってくれたのか、おねえさんは猫にあゆみよりました。
おねえさんのてのうえにはネクター。
てのひらをそっとかさねあわせて——

おねえさんが、こちらをみています。おねえさんのひとみにうつる、じぶんのすがた。
くろいけがわと、きんいろのひとみ。
ふたりとも、おんなじいろ。

おねえさんが、ゆっくりとことばをつむぎます。



「わたし、セレナ＝ノースロップは…」





















すると、いっぱくのまをあけて、ほんのりネクターがかがやきだしました。


そして、いままでとちがう、かんかく。
おねえさんとのけいやくによってうまれた、あたらしいきずな。


「うまくいったみたいだね。……おめでとう」


そのことばとはうらはらに、おにいさんがうかべるのはとてもつらそうなえがお。


「スチュアート君…」


きっと、これはおにいさんがのぞんでいなかったこと。
それでも、おねえさんは——猫は、えらんだのです。


「……僕は、もう行くよ」


そのまますぐにさっていこうとするおにいさん。

もんだいはすべてこれでかたづいたはずです。
——おにいさんのきもちをのぞいては。


「スチュアート君、待って！」


おねえさんのとめるこえがひびきます。


「元の姿に戻る方法、どこか別の世界を探すって言っていたけれど…　目星はついてる？
もし行く当てが無いのなら、見込みが立つまで 貴方もしばらく私の家に来ない？」


「何か、恩を返したいのよ。一揆の成就に色々と協力してくれたし…」


「ロク君のことでも…　貴方が諫めてくれたからこそ、気付くことができた。自分が、勝手だったってことに。
強制契約の抑制も、貴方の言葉が無ければ、こんな結果にはなってなかったかもしれない。だから…」


もうしばらく、このせかいでいっしょにいられないか、おねえさんはおにいさんにといかけます。



「姿のことを気にしているのなら…
メルンテーゼには私のような獣人もいるから、そんなに悩まなくてもいいんじゃないかって思うの」


「人間の姿でなくなったからといって、心まで必ずしも失ってしまうとは限らないんじゃない？」



おねえさんのことばを、じっときいていたおにいさん。
けれども、おにいさんのこたえは——


「……また他の世界の人が集まる分割世界を巡って、訊いて回るだけだ。
　当てなんて無くても、探さないと……このままでいれば、必ずそうなるんだ。例外なんて無かった。
　僕が追放されるまでにこうされた人も、僕と一緒に追放された友人も、みんなそうだった……」


かおをあげたおにいさんは、しずかにわらっているはずなのに、ないているようにみえました。


「ノースロップ。今まで君に迷惑をかけてきたことは謝るよ。
　こんなことを言える立場じゃないのは解ってるけど、ロクのことは、君に任せるから。
　それじゃ、……さよなら」




「そんな、迷惑だなんて…」


そういいかけたおねえさんは、けれどもかたをおとしたようでした。



「………。」



だめなのに。
このままわかれたくないのに。

もじをいくらボードにうかべていても、それではおにいさんをひきとめられない。
もう、じぶんには、おにいさんを、とめられない。



「……？」



ほんとうに——？
ほんとうに、それでいいの？
そうやって、あきらめたふりをして、にげだして。
もう、できることは、ほんとうにないの——？

———いいや。


ふみしめるいっぽはちからづよく。

「？！」




だって、まだきもちをきちんとつたえていない。
のどのおくからこえをしぼりだして、おにいさんのもとにかけよります。


猫がだしたこえにおどろいたのか、あしをとめたおにいさん。
おいついて、いきおいよくだきつきます。

そのままたおれるかたちとなってしまいましたが、とにかくおにいさんをとめられた。

なにをいったらいいのか、わからない。
ただ、あふれるままにことばをつむぎます。



「ねぇ…　スチュアート君…」




「5年が長すぎるのなら…4年後に逢いましょう。
それまでに、元の姿に戻る方法を見つけて…　人間の姿に戻った、貴方を見せて」


おねえさんのこえはおだやかで。



「けれど…　もし人の姿に戻ることができなかったのなら…」


じぶんだってなんどもだめだって、おもっていたのに、なんとかなった。
だからおにいさんにも、そんなことはあってほしくないし、ひつようなら。
あってほしくないけれども——


「残りの時間は、私達と暮らしましょう。私達が、貴方を看取るわ。
どこか名も知らない分割世界で、心を失った貴方が…見捨てられ、打ち捨てられるなんて…　嫌よ…」


「貴方の苦しみを分かち合うことができないのなら、せめて傍に寄り添うことを許して…」





おわりのほうでは、おねえさんのこえはかすれていました。



「ごめんなさい。勝手な想いなのはわかってる。でも、もしもの時は…　どうか貴方に花を手向けさせて。
人であったことを知っている、人であろうと願ったことを知っている…　私達に…」



おねえさんのことばをききながら、すこしだけおちついたこころ。
はなをすすって、おにいさんのひとみをのぞきこみます。

猫がいっしょにいくといったら、おにいさんはこまるでしょう。
そして、そのわがままはきっとおにいさんをきずつける。

おにいさんが猫にてをさしのべてくれたように。















おにいさんが、さっていく。
けれでも、こんどはこころがすれちがったままではないはず。



「………。」




ちいさくなって、みえなくなっていく、おにいさんのうしろすがた。
それをめをこらすように、ずっとみつめたまま。



「スチュアート君なら、きっと大丈夫よ…」



やがてみえなくなっても、それでもおにいさんのみちにどうかしあわせがおとずれるように。



「ロク君…　私たちも、行きましょう」





おねえさんからさしだされたてをにぎるてに、やさしさをかんじながら。

わかれにないてちょっぴりあかくなったひとみ。
だいすきなひとのぬくもりをかんじたうれしさにわずかにそまるほほ。

それらをもぜんぶそめあげるゆうやけにつつまれながら。


猫は、これからもみらいへむかって、だいすきなひとといっしょにあるきつづけるでしょう。

やるきまんまんのようです。