まだ余裕がある……と思わせるための軽口だった。
それは半ば、長寿の魔女として生きるためのクセのようなものだったが、
実際のところ、心臓は痛いほどに脈打っている。
目の前の男が恐ろしかった。
強がることしかできない自分が辛かった。
魔法で対応できると牽制したものの、それは向こうもエンブリオを従えている以上同じだった。

自分と距離を取る動作に驚く。
開放されるかと思ったが、それ以上離れることはなく。
月夜の湖のような瞳が自分を真っ直ぐに見ていた。
なぜか、恐れが熱のようにひいた。


　”普通の女になりたかったのか？”

　”そんなのは、つまらないだろう。
　　魔女の方がずっと面白い。”


男の言葉が自分に降り注ぐ。
なぜか笑ってしまった。そうだなあと思った。
ぼんやりと思った時、自分の胸に男の顔がどさりと落ちた。

動揺した。
いちばんに、自分の早鐘をうつ心臓の音を聞かれると思った。
抵抗しようかと手を動かした瞬間、低い男の声で、独白が始まった。

頭を、撫でようと思った。
彼の視界に入らないところで手をあげたけれど、やっぱり怒られそうで、やめた。
彼の言葉が途切れるのは嫌だった。

”でも、だからって、嫌なものは、嫌なんだ。
　俺は、誰でもない。ただの俺なのに。”

もういちど。こんどは。
自分の手のひらが、その癖のある髪を優しく撫でて。
どうしてかわからないけど、自分の胸元に、より彼を抱き寄せた。
彼は私の鼓動を聞いているだろうか。
私は聞くことができないけれど——　こんなに暖かい。

緊張感と安堵感が織り交ざる、奇妙なこの時間はずっと続くように思われた。
けれど、次の彼のその言葉に、女は僅かに取り乱す。

涙がこぼれ始めた。

ぼろぼろと涙が溢れ、シーツにしみを作った。
自分が、どこか期待していたんだと知る。
彼に殺されれば、自分は明日、戦わなくて済む。全てを彼のせいにして。
彼に乱暴に抱かれたかった。彼に殴られ、罵倒されたかった。
だというに、どうして。彼は私を優しく抱き、寄り添っている。
それは私のためではなく、彼自身に必要なことだから、というのはわかっている。
それどころか、私の中の魔女「だけ」を、殺そうとさえして。


いつか、眠る彼を見た時に感じた絶望感は無い。
今は、彼のいる世界を救いたいと、そう思える。


涙をなんとか抑えようとする。

それから、そっとその「お願い」を告げた。

差し出された手とグリゴリの顔を何度も見比べながら。
実際の時間にしてみれば何秒かの間だっただろうか。
ようやくその意図を理解したように、反射的に、
…僅かにその機嫌の悪さを伺いながら。

握手の形に差し出された手はずいぶんと大きくて
普段なら多少は不機嫌にもなっただろうが
どこか満足気にその手を握り返した。

ノックに続き、名を呼ぶ声。
返事を待って、扉が開かれる。

フョードルが顔を見せれば、ふと笑顔を見せ、
嫌がれる素振りのなければその身体を撫でるだろう。

言って、再びグリゴリへ視線を戻す。
その瞳の色は、かつての青色から、夜明けのような菫色へと化じていた。

わずかの沈黙。唇を噛み、幾らかの瞬き。睫毛が濡れたようだった。

こつ、こつ、と杖が地面を叩く音が背後から追う。

少し遠くから、呼び止める男の声が掛かる。

話す間にも修道士服の男は瞼を下ろしたまま、
答えを待つように首を僅かに傾げた。

こつ。と男の指がこめかみらへんを指で叩く。

言って、男は掌を開く。掌の上には丸いストゥーラが乗せられていた。

だから遅いか早いかぐらいの違いなんですが。と修道士は言葉を続けた。

食われた後の存在を、自分、と男は口にしない。
折り曲げた指が、コインを軽く叩いた。

そう、一時返却についてを相手に尋ねて、
瞼を下ろしたままの男は僅かに笑った。

良かれ悪しかれ。と、言って修道士は
見えぬ目で太陽の持ち主を見た。