「ぼく」の日記
最近、「名前」をよく聞かれるようになりました。
人には、「名前」があります。そのことは、ぼくもよく知っています。
「ええじゃないか」になってしまった、とりこまれてしまった人たちにも
ぼくが、いっしょの村で住んでいた人たちにも、「名前」があったにちがいありません。
いえ、きっとあったのです。今でも、あのころのことは思い出せますから。
たとえば、家族。ぼくの両親にも。ぼくのお姉ちゃんにも。ぼくの弟にも。名前は、あったのです。
たとえば、近所の人たち。おとなりのひとはたごさくさんで、そのおとなりはよしろうさんでした。
たとえば、村長さんたち。とてもむずかしい、よみにくい名前で。ぼくは、うまく呼べなくておこられてばかりでした。
みんなみんな、「名前」がありました。人には、「名前」があります。それは当然のことらしいです。

でも。
ぼくは。

ぼくには、「名前」が。

ありません。

そう。ぼくには、「名前」が、ありません。
思い出せないのでなく、ただ、あたえられていないということで。
ただただ、それだけのことだと、思うのです。
人には、「名前」があります。誰かがそう言いました。誰もがそう言うでしょう。
それでは、「名前」がないぼくは、人ではないのでしょうか。
「名前のないお前は人ではない」、誰かがそう言いました。
「人ではないお前に名前はない」、誰もがそう言いました。
あのころのぼくにとって、世界の全ては村の中にあって。
だからこそ、ぼくは誰かやみんなの言うことがやはり正しいのだろうと納得していたのでしょう。
ぼくは、人ではありません。いいえ、人では、なかったのです。あの頃は。
今のぼくは、おそらく人です。まだ確信はしてないけれど、「名前」がないぼくは、自分自身を人だと思っています。
そう思わせてくれたのは、ぼくを「ぼく」として呼んでくれる人がいると、みんなが教えてくれたから。
「ええじゃないか」が「ええじゃないか」と呼ばれていなかったころに。
ぼくにとっての世界が、この狂気に呑まれてしまったあとに。
そしてぼくが、その群衆におっかなびっくりついて行くだけだったあの日々の中で。
開けていた、開かれていた新しい世界では、ぼくは「人ではない」と言われることはありませんでした。
「名前」がないぼくは、「名前」がないぼくというひとりの人間として、そこにいることを許されたのです。

それが、どれほどしあわせだったことか。
人として認められ、そこにいることができる。ぼくはそれだけで、生きていけるのだと。
そう、思います。そのことに関してだけは、「ええじゃないか」に、感謝もしているのです。

ぼくには「名前」がありません。
だから、ぼくのことは「ぼく」と。そう呼んでください。
わかりにくいなら、どう呼んでもらっても構いません。
たとえどう呼ばれても、ぼくは「ぼく」で、きっと人間として生きていけるのだと、そう思いますから。
……恥ずかしいのは、ちょっと嫌ですけど。











・「道化師」の独白
月並みな言葉で申し訳ないことこの上ないのだけれども
幸福とはあくまで相対的なものでしかない、といえなくもないんだよね
自分が幸福であるということを、一体誰が決めるのか。それは今でも昔でもなく今の自分自身に他ならない。
ということは過去と比較して幸福の尺度を決定してしまうというのは、現在の自身としては至極当然極まりない訳で。
より悲惨な過去と比べれば、悲惨な現在でも幸福に思えてしまう、と。そういうことも起こり得るのだよね。
もちろん、他人と比較して自分を顧みるという地点に至ればそんなことは起こりえないのかもしれないけれど。
残念ながら他人と自分では開始点から異なるということをすでに知り尽くしている彼であるから、比較対象として他者を持ち出すことができないのだろうね。
かわいそうだね。とてもとてもかわいそうだと我輩は思うよ。
ああ、今更「彼」が誰かなんて、そんなことに言及する必要はまさかあるまいね。ないだろう。ないに違いない。つまりない！
問題なのは彼は今本当に十分に幸福なのかどうか。不満があれども幸福ならば我輩がでしゃばる必要などさらさらないのだけれど。
しかして我輩が今現在この時点で存在してしまっているということは、つまるところ誰かしら何かしらが困窮しているか渇望しているかという訳なのだよね。
さてはてどうしたものか。別にどうしなくてもいいのだけど。どうにかしてあげたいと思わなくもないね。