柔らかく、暖かくなった日差し。まだその恩恵は陽がある間だけのもので、日が沈めばすぐに冷え込んでしまうのだが、それでも確かに季節は進んでいる。その優しい午前の日差しに目を細め、アイヴォリーは目の前のそれに目をやった。そこには半ば立ち枯れた背の低い老木が一本、中々に立派な幹と枝振りで残されていた。その枝には既にいくつか白いつぼみが付き始めている。この季節になると咲く、どこの世界にも見られる花の美しい木だった。

「うッし、じゃコイツが終わったらおチャにしましょうかね。」

　傍らの佇む相方の頭をいつものように引っ掻き回してアイヴォリーはそう言った。その視線は木の根元、小さく穿たれた石造りの穴に向けられている。小さな祠に見えなくもないその入り口は墓地にある納骨堂といった趣きで、静かな当たりの雰囲気とも相まって、もうしばらく季節が進めば舞い散る薄い色の花びらを敷き詰めた安らかな安息所にも見えたことだろう。だがここは残念ながらそういった平和な場所ではない。この地下には広大な廊下と檻で仕切られた個室が延々と続く暗い世界だった。
　もっとも、その個室がそのまま安息所になってしまった者も数えきれないほどにはいるのだろうが。そんな暗澹とした想像にアイヴォリーは小さく口の端を歪めた。それに、彼のような職業冒険者にとってはどちらにも大差はない。地下牢も、納骨堂も、時として彼らのような生業の者たちにとっては探索の対象となる。つまりは、どちらも“ダンジョン”でしかない。
　その内側は外の明るい日差しのせいか、普段よりもさらに濃く闇が蟠って見えた。無論それは目の錯覚でしかない。そうでなければ今日の相手が分かっているから、彼自身の心がそう見せているだけのことだ。
　アイヴォリーは軽く彼女の背中を押すと、暗い地下へと降りて行った。


　狭い空間には足音さえ響かない。メイリーは僅かに宙に浮いているので足音がしないし、アイヴォリーはそのブーツの性能を遺憾なく発揮して静かに歩を進めるのが職業柄の癖として根付いてしまっているからだ。まるで彷徨う幽鬼のように、二人の影だけが派手に踊りながら音もなく二人は進んでいく。

「来た、な。」

　アイヴォリーの呟きとともに、前方の角から足音が静かに響いた。同時に冷たい明かりが灯り、彼らの影が揺らぎもせず壁に描かれる。角の向こうから現れたのは四人だった。もっとも、それを引き連れた男はともかくとして、それ以外のみっつを人として数えるならの話だが。

「おやおや、こんなところに客人ですか。先ほどの方といい……今日は多いですねぇ。」

　冷たい魔術の光に冴え渡るような青い法衣。司祭が身に付けるような飾り帽子を付けたその男はアイヴォリーたち二人を見てそう静かに言った。どちらかといえば優男の部類に入る。細身で中性的なその顔立ちは明るいところで見れば魅力的なものに見えたかもしれない。だが、陽の光が届かない闇が彼の本質を暴いていた。

「私はラズロと言いまして、しがない司教でございます。
　噂のあなたたち敵軍を討伐せよとの命を受けておりまして……」

　無表情で、拒絶をまとった男。“先ほどの方”がどうなったのかは想像に難くもない。出来ることならば周囲の三つの人影に編入されていないことを祈るしかないだろう。だが、どちらにしても彼ら二人がやるべきことが変わる訳でもない。
　男の口元が柔らかく微笑んだ。

「……ここ、通せないんですよね。基本的に。」

　言葉と行動が一致しなかった。
　時折、こういった人間がいる。それを人間と呼ぶならばの話だが。人の域を何かしら超えた類の“人間”だ。
　アイヴォリーはそういった者たちをこれまでに嫌というほど目にしてきた。むしろ、自分もそちら側にいたのだから目にしてきただけでは済まない話だ。偶然にも、今目の前にいるその男と同じ名前のそういった人物に会ったことがある。その国で最高位の導師だったその男は忠実で賢明な王宮付きの魔導師だった。人格者でもあったその男は、深淵に封じられた魔王に心を壊され、額に赤い石を埋めた魔王の依代を護り続ける僕となった。
　広大な地下迷宮の深部、魔神を従え爆散する炎の魔術を操って新たな王を護る役割を得たその男に、かつてアイヴォリーは相対したのだ。彼もまた、目の前の司教と同じように、人であることを放棄し、人を超えてしまった人間だった。
　だからこそ、アイヴォリーは知っている。その身に知らしめられている。そういった類の連中が、強いということを。

「なら、押し通るまでのコトさ。」

　口元に凄味のある笑みを浮かべ、アイヴォリーはそれだけを答えた。その言葉とともに、それまで微動だにしなかった三つの人影が緩慢に動き出す。

「メイリー、来るぞ！」

「うん！」

　地下深く、“障害”と彼ら二人の戦いが始まった。


「ヤレヤレ……今日も良くガンバりましたとさ。」

　大きく息を吐いて、アイヴォリーは言葉とともに老木の根元へどっかりと腰を下ろした。地下牢での戦いを終え外へと戻ってきたのはもう日も傾きかけた頃だった。いつものことではあるが、彼ら“障害”との戦闘は疲れる。それは彼らの強さがどうという現実的な問題よりも、徒労感から来るものだ。たとえアイヴォリーたちがそれを排除したとしても、“障害”として世界に配置された者たちがいなくなることはない。ただ彼らの目の前に現れなくなるだけだ。彼らは他の者がそこを訪れれば平然とした顔で現れる。そうして同じことを繰り返す。それは恐らく、この世界が終わるまで永遠に、延々と続くのだ。それは、かつて“島”と呼ばれたあの場所で、宝玉を守護している者たちと戦ったときからずっと変わらないことだった。

「おゥ、そうだ。メイリー、忘れねェウチに渡しとくぜ。」

　木に背を預けたままのアイヴォリーは、懐に手を入れて何かを取り出した。小さな小箱を蔓草でくくっただけの簡素なそれを、首を傾げている彼女の手に無理やり押し付けるようにして押し込む。

「あら、何かしら？」

「よッこらせ、ッと。」

　彼女の疑問には答えないままで、アイヴォリーは年寄り染みた掛け声をかけて立ち上がった。元々今日は移動するつもりがなかったので、この地下牢の入り口近くに野営を設置したままにしている。それだけでも労力が大幅に違うというものだ。

「ま、帰ってユックリおチャでもしようぜ。」

　彼女の背を押し、促して野営地に向けて歩き出す。そうして、その昏い入り口をもう振り返ることもなく、徒労感ごとそこに捨てていくかのようにして、アイヴォリーは大きく息を吐き出したのだった。