しましまの陰、揺れる木のベンチ。
アジュガが一番最初に思い出す光景は、そんな小さな空間だ。
地下牢の鉄格子を見ていると、それをよく思い出す。
それも、そこがはじめての記憶だったのではなく、似たような場所にずっといて、それが混ざり合っているのかもしれない。


まだ、深緋が丘の花守と呼ばれなかった頃の話。


格子のはめられた馬車の窓の向こうには青空が広がり、身体はごとごとと揺れる。
両手には手錠がかけられていたが、動きに不自由することはなかった。
その状況に似つかわしくなく、次はどんな景色が見られるのだろうと、旅行者のようなことを空想するのがアジュガの楽しみだった。
実際にはそう国々を移動してきたわけではないが、幼い少女には、それが大変な距離に感じられたものだ。
見たことの無い空の色も、木々のざわめきも、少女を楽しませるには十分だった。
同じ馬車の中には、同じように手錠をかけられた大人たちも同席しており、よく世話を焼いてくれた。

しかし、その中に父や母と呼ばれる人々がいなかったことだけは分かっている。
彼らは耳の長い者や、肌に鱗があるものなど、無造作に集められたとよく分かる者たちばかりだったからだ。
人間も何名か同席していたが、彼らとは肌の色や神の色が違った。
何より、その中で女性だったのは同年代の少女たちと、老齢の女性一人だけだったからだ。

当然彼らは旅行者といった気楽な身分ではなかった。
そして同じく当然ながら、罪人などでもなかった。
今になって思う。恐らく自分たちはこれから売られ行く奴隷だったのだろうと。

とはいえ、そんなに重苦しい人生を歩んでいた記憶もアジュガには無かった。
無知な幼女はうつりゆく馬車からの景色を楽しんでいたが、大人たちもそうであったからだ。
御者の男は小太りの気さくな男で、アジュガは彼にもよく遊んでもらった記憶がある。
彼は酒飲みでもあった。
休憩のたびに持ち歩いていたエールをあおっていたが、それを大人たちにも少しずつ振舞っていた。
何か彼ら、管理する側の人間から手荒な仕打ちを受けることも無かった。

あくまで立場上、奴隷であったのかもしれない。
当時、深緋が丘周辺の村々の数は、今ほど多くはなく、その代わりにとにかく開拓の人手が必要な頃だった。
農村に売られる奴隷の場合、決して主人の身分も高いものではない。
自分より弱い存在が出来て、喜び甚振るものもいるが、あくまでオーナーと部下という良好な関係を築く場合もある。
自分も含め、子供が何人か混じっていたのは、将来的に何処かの家に嫁がせる目的のものだったのかもしれない。
そうでなければ、単純に価値の高い商品であったか、である。
どちらにしても、当時のことを語る人物が自分しかいない今は、どれも憶測の域を出ない。

—そして、その奇妙で穏やかな時間は、一日のうちに破られた。

最初の変化は緩やかだった。
老女が激しく咳き込みだしたので、馬車を止め、近くの泉で休憩を取ることになった。
それぞれが泉の水で喉を潤し、思い思いに身体を伸ばす。
アジュガもまたその泉の水を口にし、友人たちとはしゃぎまわった。
その後子供たちはお互いの手錠を鳴らしあって遊びながら、暇を潰していた。

すると、どさりと。

老婆の傍らに立っていた人物が、地に伏した。
次に倒れたのは、あの御者の小太りな男だった。
心臓を押さえ、激しく呼吸をしながらその場に崩れこみ、そして口から何かを吐き出す。
吐瀉物に混じり、そこには血の色があった。
そこからは地獄絵図そのもので、水を口にした者たち—つまり旅路のメンバー全員が、同様の症状を覚えて倒れこんだ。
最初に不調を訴えた老婆は既に、息絶えた後だった。


アジュガも同様に、その痛みと熱に苦しんだ。

いくらでも吐いた。血も何もかも。内臓まで吐き出すかと思うほどだった。




熱い。





あつい。

だあれ？あなたはだあれ？

助かりたい。ねぇ、みんなも助けて欲しいの。

うん、わかった、紅い花ね。

なぁに、わたしは何をしたらいいの？


* * * *

その年の近隣の村では、疫病が大いに流行った。
多くの人間の移動、流入が原因とされ、また種類も複数あったために、医者もエンブリオも匙を投げることが殆どであった。
現在はそれもなくなったが、ある村には、慰霊碑が刻まれているという。

当然、丘から出入りすることの少ないアジュガが、それを知る由は無い。

跳ねて走り回っている。

黙して時を待つ。

世界の危機にも関わらず、私の刃を取る理由はあまりに軽い。
それは、あるいは顰蹙を買う事なのかもしれない、と。

だとしたら、王の暴虐は、彼女にとってはあまりに重い。
私が戦う理由とは正反対の——強い芯を持ったもの。

基盤を失った私はただ、『道具』として戦うだけ。
彼女の在り方は、私にとってはひどく眩しい。

向こうの世界にもあった花の名前。青や紫の色をした綺麗な花。
凛と立って咲くその花は、彼女に似つかわしいと思う。

と、マキリはここから少し離れたお店を指さす。

あなたは一緒にその店に向かってもいいし、もう少し立ち話をしても良い。

（そうしてあなたの小さな友人に笑いかける。
言葉こそ嫌味のように聞こえるが、悪気は全くないようで本心からそう思い、感心しているようだ。）

（アンタの相棒もそうなのかもなー？と、やはり笑いながら青年は応えた。）

（恐らく彼に対しての第一印象で思ったであろう、とても軽いノリで『一揆に参加した理由』という大事なことを聞いてくる。
しかし言葉を続ける青年の顔は、笑みこそ絶やさないもののその緋色の瞳は、真剣なものに変わっていた。）

ひとつ、言葉を零すように。

それから暫し沈黙ののちに。

小さく、くすりと笑って。