Side:A　古びた世界

　一揆の時間軸にて17日目。体調は良好。力も大分戻りつつある。
　暗灰色の薄雲が覆われた宵空と同様に、薄暗く陰湿な空気を孕んだ。
　建物と建物の間の狭い路地。奥の方が霞んで見えるような錯覚に、深い溜息を吐いた。
　花を届けに行った帰り。真逆の方にある店に戻るにも、家へ直帰するにも時間がかかる。
だから、戻りつつあった『世界を渡る力』を使って一本道で時短しようとしたのだが、出てきた先は見た事のない路地。
　恐らく使われていない都市区か、棄てられた廃都の一部か。
　見た限り文明レベルは標準以上であるし、そこそこ大きな場所だからこういった所があるのも、実際は然程珍しい事でもない。
　一揆民あの土地からそう遠くない場所だろう。王に潰された都市なのかもしれない。

「……どうしよう」

　後ろで交叉するベルトにつなげられた錠前と鍵に振れる。彼女が世界を渡る為の…文字通りの『鍵』。
　一度起こしてしまった誤差を修正するには少し時間がかかる。再度世界を渡ろうとすると魔力を蓄積する時間が必要だった。かと言って得体のしれない路地を進む気にもなれない。二度目の溜息。

「霧に紛れれば良いんだけど……」

　といってもあるのは渇いた壁の土埃。近場の冷たい壁に、背中を寄り掛からせる。

「———……？」

　こちらから見て左側の視界の端に。暗闇の中で何かが蠢いたような、そんな気配を感じた。
　視線を闇の中へと向けながら、緩やかに首を傾いで。
　暗闇の、というよりは。何か向かい側の壁を伝っているような。
　うぞり、と蠢く二節に分かれた、八本足の。丸みを帯びた胴体に、色彩宜しくない縞模様、の。

「………っ！」


————蜘蛛！


　通常の蜘蛛より、その大きさは四倍くらいあるのではないだろうか。ゆっくりと、然し確実に、王者の如く進む脚。こちらの正面でその動きが止まった。
　出来ることならそのまま通り過ぎていってほしいところだったが。

————。

「えっ」

　進路方向変え始めた。

「……」

　地面に下り始めた。
　そして何故かこちらに向かってきた。

「……なんでこっちに…っ」

　動揺と恐怖に開眼する。背中を壁伝いに擦り寄せるようにしながら、左へ左へと移動しているのに。捕食対象と見做したのか、単なる偶然なのか。うぞりうぞりと距離を詰めてくる大型の蜘蛛。　

「……ぅ、……」

　どうしようどうしようどうし、

「Stay down！」

　動くな！　という鋭く放った声。闇の静寂を掻き乱す。その直後、トリガーが引かれる。狙われたのは化け物じみた蜘蛛の頭。体の大きな蜘蛛は、殺し辛いが狙い易い。
　弾丸は蜘蛛の頭に命中したが、ちっとも前進する脚を止めてくれない。


「Damm!」

　クソッタレ。やっぱり一発じゃ無理かとその声は低く唸る。

「こっちだ、化け物！」

　声を張り上げて蜘蛛を煽っている。

「え……え？」

　そして動くな、と叫ばれた手前、その場から微動だに出来ず。その間にも、大型の蜘蛛を引きつけるようにし轟く声の方向へ、視線を流す。
　銀の短髪と翠の眼をした大柄の男。その手には先程弾丸を放った銃も。

「………」

　八本脚を直視出来なくて、流した視線が彷徨う。その合間にも、蜘蛛は彼の方に向かっていく

「Good、よし、イイ子だ。…遊んでやるから、来い」

　挑発に感化されたのか、否か。　蜘蛛の脚はゆっくりと方向を転換させて、後退していく男の方へと進撃する。こちらに背面を見せる大型の蜘蛛と、真っ向から迎え撃つ算段だろう。
　蜘蛛の毛むくじゃらの顔に並ぶ、八つの目を睨みながら楽しげに喉を鳴らす。蜘蛛が規則的な脚の動きと共に、コッチに向かって来るのなら、それを誘うように両手を広げてじりじりと後退。

「ほら、来いよ。獲物は目の前だぞ、ビビってンのか？」

　まるで聞き分けの良い犬にでも言い聞かせるようで、煽る声色は低い。
　蜘蛛に言葉は通じ無いだろうが。それでも、挑発の言葉を投げながら誘う。

「——来い」

　緩慢だった蜘蛛の動きが、それこそ狙いを定めたかのように、八本の脚をバネに撓めて男へと跳びかかる。

—————ォォォオオオ！

　蜘蛛が跳ねたのを見た瞬間、後退するのを止めた。目測で距離を測り、至近距離で一発。派手に中身を吹き上げて体勢を崩す。
　鋏角を大きく開いて、男の頭を喰らわんとした蜘蛛目掛けて、一度目の銃撃。体液混じりの内部を散らせる蜘蛛へと、追撃の破裂音。燻る硝煙と、転がる薬莢の旋律。
蜘蛛がよろめいた所に、もう一撃。さらに一撃。一撃……。
　銃口を吼えさせ、絶え間ない銃撃を蜘蛛の頭へと浴びせかける。その部位が、原型を全く留めなくなるまで。

「………」

　完全に沈黙した蜘蛛が倒れるのを、じっと見送る形。ここまでやれば起きて来ないだろう。そんな事を思うと、肩の力が抜けた。
　やがて、粉々に頭部を撃ち抜かれた大型のそれが路地に倒れ込んで、ぴくりとも動かなくなった。

「……は、……」

　一連の戦闘を間近で垣間見て。蜘蛛が絶命したのだと思った途端、なんとも情けなく、ぺたりとその場に座り込んでしまう。

「大丈夫か？」

　倒れた蜘蛛を挟んだ向こう側で、偽が座り込んだのに気付いて声をかける。強く地を蹴って、蜘蛛の死体を飛び越えた。

「貧血か？　それとも、どこか噛まれたりしちまったか」

　着地してから銃をしまい、彼女の前に屈みこむ。怪我してないとイイけどと。言葉の端に、自然と不安の色が滲んだ。

「…だ、いじょうぶ…　ちょっと、力抜けちゃって……」

　壁際に右肩を凭れながら、気が抜けたような微笑を浮かべつつ。早い話が、腰が抜けてしまっただけという、お粗末なもの。

「…それよりも、有難う。助かり…ました」
「……無事なら良かった」

　笑みつつ、柔らかく纏まった紫水晶色を見遣って目を細める。
　それから彼女の姿を流し見て、ころんと背面の錠前が少し視界に入った。そしてその錠前の鍵がへたり込んだ拍子に落ちてしまっていたので、それを拾い上げてやる。
　鍵の前面には『Abyss　Ⅸ』と彫られている。

「…ん？」

　怪訝そうな顔になって首を傾げると、疑問の声が、後に続く。

「もしかして、愚鈍の仲間か？」

　鍵を手渡しながら、自信なさげに彼は問う。彼女以外に見た事は無いが、話にのみなら出てきた事があった。
その話に合った人物の一人が、彼女に似た姿だった筈だった、と彼は記憶を巡らせる。
　対してぴくりと肩が小さく揺れて、反応を示す。知り合いではないが、名称は知っているし、仲間であると認識しているその名称。
　変わらず彼の翠の双眸を見つめた後に、鍵に手を伸ばしてそれを受け取った。

「……貴方、だれです　か？」

　特に警戒を示している訳ではないのは、柔い声色で気付いてくれるだろうが。
　自分達を知っているのだ、只者ではないのは確かだった緩やかに首を傾ぎながら、お強い貴方はどこの誰なの、なんて。

「俺ァ……タダの荒事師だよ。勝手気侭な、独り身のな。カネ次第で何でもやる。そう言う系統野郎な」
「———ああ、」

　そう言えば、そんな人物で騒いでいた場所もあったような。
　単独行動で、金額次第では大業も成し遂げるだとか。けれども目立った噂と言えば、何故か悪い方向ばかりだったけれど。

「……小耳に挟んだ程度、ですけど……。そう、恐くない人、でした」

　噂と言うものはとんでもない尾鰭が付き物。人の皮を被った悪魔だとかなんとか、言ってた輩も居た。
　会話の最中で気力は回復してきたのか、戯れめいた言葉を投げつつも、相変わらず腰は抜けたままなので、格好は付かない。

「ついでに」

　唐突に話題の方向を切り替えて、ジャケットを脱いでから伸ばす腕。

「ベッドならいざ知らず、女を地べたに座らせとく趣味もなくてな。運が悪かったと諦めてくれ」

　ジャケットは蜘蛛の血で汚れてる。だから、その面を内側にして軽く丸め、肩に引っ掛けてから彼女を横抱きに抱え上げた。
　いわゆるお姫様抱っこ。悲鳴とビンタは覚悟の上での行動。

「…ちょ、っと…　もう立てま、す　から…！」

　双眸を瞬かせてから、状況を把握するのに一拍遅れてしまった。下ろして、と彼の肩口をぺしりと軽めに叩く抗議。

「その台詞は、後で聞くよ」
「今　聞いて欲しいん　です　けど…っ」

　跳ね上がる声も、軽やかな反応も、実に見た目らしい生娘の反応。
　これが良い雰囲気の出会い方だったら、遠慮なくこのまま口説いただろう。けれど、戯れでもちょっかいかけて修羅場になるのは、あんまり楽しいとは思えない。
　だから、自分で立つという彼女の言葉をやんわりと却下して、そっと、その耳元に唇を寄せた。

「もう少しだけ、抱かせてくれ」

　何の睦言かと思われそうな言葉を、息と共に紫水晶色に絡める。今度は割りと強めに、その肩口を叩いてみたけど、それも声を失う。
　不意に、耳元を擽るのは、か弱い女性であれば瞬く間に陥落しそうなそれ。込みあげた感情は名状しがたく、オーバーヒートを起こして焼けてしまいそうな程真っ赤に染まる。

「っ……。なんで、最近の男の人って」

　臆面もなくそういう事を言ってのけるのだろうか。どう足掻いても下ろしてはくれないらしい彼に、諦めるしかないらしかった。


　そのまま向かったのは彼女にとってなじみのない裏町の宿。
　彼は面識があるのか、出てきた男性に『今度は何やらかした』と言いたげな眼が突き刺さっていた、が、何も咎める事は無かった。そうして、そ知らぬ顔で彼女をソファに降ろした。。
　漸く解放された彼女は、近くのクッションを彼の背中に投げつけてやった。可憐さなんて微塵も無い、羞恥に顔を真っ赤にしてのささやかな攻撃。
　しかし彼は彼で、むしろ楽しそうに喉を鳴らして、悪戯が成功した犬のように満面の笑顔を咲かせる始末だった。余計に彼女はむすっとする。

「……で、あそこで何やってたんだ？」

　彼は男……この宿のオヤジに汚れたジャケットを預け、入れ替わりに紅茶を受け取る。どうも顔見知りのようで、慣れた手つきでジャケットを預ける様子を見遣りながら、柔らかな背凭れに背中を埋もれさせる。
　その眼は臆病なものでも恐怖のものでもなく、眠たそうに細められる。

「まあ、蜘蛛が不意打ちだったのは理解できたけどな」

　でなければ反撃してただろう。それだけの力があると聞いていた。

「ちょっと……渡るのに足を踏み外して」
「そうか。まあ、渡る先は定め辛いよな」

　同意して、オヤジから貰った紅茶を差し出し、彼女が受け取るのを笑みの侭に待つ。
　それは少し眠そうだからとブランデーを頼んでおいて、紅茶と混ぜたもの。ほろ苦く微かに甘く、ゆるやかに眠いへ誘うもの。
　彼女はそれを両手で受け取って、温かな薄茶色のそれを口に含む。ちょっと苦くて甘めの穏やかさが、咥内から染み渡って。ほぅ、と小さく安堵の吐息。

「どうする、戻るか？　俺の知ってる景色の場所なら送ってやれるけど」

　そんな提案をしながら、それと、と続けて、

「ここで眠って行くのなら部屋を取るけど。この朝食、結構旨いよ」

　バゲットとサラダ、後は卵とチーズが少し、と指折り数える。男性である彼とっては物足りない感じの朝食メニューだが、小食そうな女性には丁度良いもの。
もっとも肉食が主な原動力なので、見た目に反して彼女も少し足りないものではあるが。

「……部屋取る気満々じゃないですか」

彼にそんな気はないだろうけど、戯れめいた言葉を紡ぎつつ、くすくす笑う。

「でも……少し疲れたので……、今日は此処にお世話になります」

　渡された紅茶のお陰か、明るい場所に来たからか。暫くして微睡み始める。

「そうだな、残念ながら個室だが」

　そんな風に笑って、彼女の寝息を耳にしたら、今度は部屋まで彼女を運んで行く。後はここに戻って、ソファを端の方に持って行って、そこに転がって寝床にすることとなった。
　「お金あるなら銀の兄さんも部屋取りやがれ」と叱る旦那の声も夢うつつ。
　やがては差し込む光の眩しさに耐えかねて、昼前にもそもそと起きるのだけど、それまでは、ただひたすらに緩慢な眠りを。ソファの上で、明けに訪れる目覚めの時まで。

　無事ならば、それ以上の事はない。
　一瞬だけ、彼女の表情が陰ったようにも見えた、ようにも見えたが。人狩りにあったことでも思い出したのか。
　真偽は分からずにせよ、楽しくはない話だ。
　これ以上はよそう、と考える。

　あまり役に立てているとも思えないが。それでも望むなら答えようと、トカゲは答える。　

『魔法使いだから』。
そう語る彼女の姿に、何か、違和でも覚えたか。
ただ一つ、問う。

それから、彼女の問うた自らの世界に、少しだけ思いを巡らせて。

特別興味を惹かれるようなものなどありはしない。
そう繰り返してから、瞼を伏せて。