[ 自動書記文箭の記録より ]

「文箭、おめぇに頼てぇ事があるんじゃ」

ある朝、岩崎勝はそう言って己を見据えた。
衣服は日本兵のそれで、まだ真新しく、彼に馴染んでいない。
そもそも洋装自体、彼に似合っているとは思えぬ。赤ん坊の頃から和装姿で居るのを見てきたからだろうか。
武張った空気は彼には似合わない。剣道や柔道に優れているとはいえ、柔和な女性のような顔が兵士の服の上に乗っているのである。己は苦笑を漏らした。

「どうしたんですか、君は出兵でもするのですか」

冗談交じりに聞いてみると、勝は真面目な顔をしてすぐに頷いた。——唖然とした。
唖然の次に、すぐに絶望がやって来た。

「俺は陸軍に志願するんじゃ」
「どうして」
「徴兵よりも、志願兵の方が良えらしい。理由は知らんが。それに、何より」

「御國のため」——彼は、そう言う。
当たり前のように言うけれども、人間の中には徴兵を免れようと必死になる輩が大勢居た。
己はその目で見てきたし、徴兵を免れたさる御曹司の息子を恨む目も見てきた。彼女は、たった一人で育てた息子を、國に盗られたと言って憚らなかった。
兵士になる事で愛する人と別れる者を、その顛末を、この頃はたくさん見るようになった。
それがまさか、身近なところで起ころうとは、思いもよらなかったのだ。
岩崎家とは物理的にも精神的にも距離があるものの、勝とその母のせんとはいまだに付き合いがある。
しかし、せんも、もう年老いた。2年前に病を患ってから、ここには来なくなっていた。
おかっぱ頭で「文箭、文箭」と後をついて来ていたのが、急に懐かしく思われた。

「せんは、どうするん」
「母上は父上が看とってくれると」
「そんな」

なんともすっきりした顔をされては、言葉が次げない。
せんが幼い頃に、己の作者が死んだ。
作者が亡くなって、己は“人の死”を目の当たりにしても、どこか遠くから眺めるような目で見ていたのだと気がついた。
今回もそうだった。
たとえ人の経験談を聴いたとしても、それを記録したとしても、自らが経験してみない事には半分も理解しちゃいないのだ。常々そう思わされる。

否、勝の死が決まったような書き方は、止そう。

「それで、僕に頼み事とは、何ですか？」
「他でもねぇ。俺の事を書き留めてほしい」
「何のために」
「分かりょーるくせして質問するか」

彼は自らの胸をトントンと軽く叩いてみせた。

「俺は帰らんじゃろう」
「ばかを！」
「まあ聞け。じゃけどな、帰らんにしても唯帰らんのじゃ芸が無ぇじゃろ？」
「…………」
「遺書じゃ悲しいだけじゃけぇ、どうしようかなあと考えよーたんじゃ。そこで、思いついたんよ」
「僕を、ですか」
「そう。自動書記の“文箭”なら、俺が生きてきた全てを書き留めて記録してくれるじゃろ？一生に一度の、最期の願いじゃ。聞き届けてくれんわけじゃねかろう」

本当に、すっきりとした顔で言うのだ、勝は。

「……そういう言い方は、ずるいですよ」

己は俯いた。勝のようにすっきりとした顔はできない。
世の中はうつろう。だから、薬屋の富さんや主税さん、旅館の千登勢さんといった身近な人々の葬儀に参列した事だってある。
首相はいたずらに変わり、政党で人が揺れ動く。西洋文明が次々と日本を染める。
そうした中で、人は死んでいく。死だけではない。薬屋の隣の三宅さん家では、先日目出度く男児が誕生したばかりだ。

唯、人と己の時間が圧倒的に違う事は、己を寂しくさせた。
人の時間は、斯くも短く。それ故に、勝はあんな顔ができたのだろうと思う。

「さあ、文箭、時間が無え。今から俺が語る事、おめぇが責任持って守って——俺を忘れんでくれ」
「——はい」

どうか、忘れないでくれ。
その言葉は未練ではなくて、もっともっと清らかで、綺麗なものだった。













「大分御疲れのようでしたね」
「あら、おはよう」

目を覚ますと、暗闇の中で金の糸が光っていた。
アイリスとエルザがこちらを見ていた。
左手から小さな寝息が聞こえる。こちらは野良か——。

先程まで目を瞑っていたからか、すぐに目は慣れた。
白い手が己に突き出される。幾枚——というには少し分厚い束の紙を、エルザが差し出している。

「戦闘中に落とされた物ですよ。失くしたら困るものなのでしょう？」
「え、ああ、はい……」

大人しくそれを受け取ると、エルザはこちらに興味を失ったかのような気配がした。
先に起きていたアイリスと茶でも飲んでいるらしい。紅茶の香りがする。
己は受け取った紙の束を、手探りで見つけたトランクに突っ込んでおいた。

己は戦闘などで傷付いた時、血の代わりに記録を失くす。
記録は比較的新しいものからランダムに選ばれ、回収して眠るか筆記し直しさえすれば修復できる。
けれども、散逸した場合は二度と戻らない。そしてどうやら、記録自体が失くなると、その事自体忘れてしまうようである。
つまり、記録した内容を失った事すら忘れるのだ。他人に指摘されるまで、全く気付かなかった事である。

本が出歩くという事自体が変な話なのだが、そうなっている以上、実は自分の身を最優先で守らねばならない。
これは己だけの問題ではないのだ。記録をした人々のためにも、そして話を楽しみにしている啓のような者達や——作者のために。




久方ぶりに勝の夢を見た。

彼は見知らぬ地で亡くなった。けれども、彼の記録は己の中に確と在る。

外された手袋と、手を、交互に見比べて、首をかしげる。

許しを得たので、上着の内側にもそっと手を伸ばす。
布地を撫でたり、つまんでみたりしては、首をかしげている。

恥ずかしそうに、消え入る声で。
人見知りが激しいのだろう。会話の最中あまり目を合わせなかった少女だが。

……最後のこの質問の時、一瞬ちらりと交錯した目には、恥じらいと怯えに混じり、いつの間にか少し違う色が宿っていた。

帽子に手をかけおどけて見せる。がっちり固定されているのでそんなことで取れはしないが。

笑いながら腰の袋を漁る。軽く首を振り、視線を落として。

ほんの少し間をとると、一転して眉を寄せ困り顔を演じた。

深々と頭を下げる。善人相手にはよく使う手であった。
ここで即座に帰らされるようなら、最初から対応が間違っていたのだ。
男の眼がちらちらと揺れる。

カカカ、と笑い茶化すように言う。

角を触られている間、もてあましたようにしていた"ソレ"は
思いついたようにゆっくりと貴方に顔を近づけるとスンスンと鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ始める。

小さく漏らしたその声は距離が近かったこともあり、もしかすると貴方の耳に届いたかもしれない。