向かい風を纏いながら、トガノはハルシオンの下へと駆け続ける。
決して忠誠心からではない。
ただ、ここ最近の興味深い激動を見逃すような真似はしたくない。
彼の思いは…それだけだった。

ハルシオンの姿を眼前に捉えれば、駆ける速度を一気に落とし。
丁度ハルシオンの側面に跪くような形で静止する。
トガノに呼吸の乱れは一切ない。その様子は、彼の底無しの体力とこういった行為への慣れを感じさせるには充分だ。

『誰と』とは問うてこない。
ハルシオンはハルシオンで、トガノが誰かと接触してきたことと…その接触した人物にもあたりを付けているのだろう。

実際のところは、トガノがラルクゥ達と会いに行く前に、既にハルシオンとベルフィの苛烈な戦闘は済まされていた。
結果はどちらの勝利とも称し難い、微妙な代物だったが…。
ベルフィは他の一揆集ともそのような戦いを繰り広げていたようで、とうとう根負けしたらしい。
「この地を最高の観光名所にしてやる」と捨て台詞を残して荒野を去ってしまったのだ。

ハルシオンはただただ呆れ返っていた。
「さんざ世界をかき回した末路がこれなのか」と。
その様相は…もしかしたら、自分が所属していた帝国の衰亡と重なる所もあったのかもしれない。

ただ…トガノは、この先まだ『何か』があるように感じていた。
根拠はない。いつも通り、ただの勘である。
この世界で知り合った伴侶である妖狐のツヅミを、自分達のすぐ傍へと呼び寄せたのもこのためだ。
トガノは現在、彼女の正確な居所までは把握していないが…
常に傍にいるであろうことは、二人の周囲を勘付かれない程度に呼び回る雀蜂の様子からも察することができる。
…因みに、ハルシオンがこれの存在に気付いているかどうかは定かではない。

気落ちしているのか。ハルシオンの足取りは決して軽やかな代物ではない。
たまに近くを漂う球体を引き寄せ、指を入れ…暫くしてまた宙を漂わせるといったことを繰り返している。
これは彼なりの暇潰し方法なのだろうか。
やがて、その行為は唯一透明な所属不明の球体へと向けられる。
指を入れた瞬間、ハルシオンの表情が僅かに変わったのをトガノは見逃さなかった。

トガノにはその言葉の意味が分からなかった。
真意を確かめるべく、不思議そうな顔をハルシオンへと向けている。
ハルシオンはそんなトガノの表情をじっと見つめ……。

ハルシオンが小さく溜息を吐き、宙を飛んでいる雀蜂を指差す。

トガノの目の色が変わった。
彼としては、ツヅミの情報はハルシオンには極力知られたくなかったのだが…最早手遅れ。
ただそうだとしても、ハルシオンに直接問い掛けられない限りは答えるつもりはない。
ここで自ら情報を吐露しても何の益にもならないことを、最近の色々な経験を経て理解したからだ。

……一陣の冷たい風が吹き、二人の服や髪が流れるように揺れる。
二人の間に訪れた沈黙を破ったのはハルシオンの方だった。

トガノは暫し呆気に取られていた。
そのハルシオンの言い草が想定外だったというのもあるが。
それ以上に…彼が自分のことを気に掛けていたという事実が意外だったのだ。

声には出さず、小さく笑う。
トガノのその表情は…どこか満足そうにも見えるだろうか。

不意に、ハルシオンの歩みが止まった。
トガノが何事かと正面を見ると…そこには褐色の肌を持つ女戦士…ラルクゥの姿があった。
こちらの行く手を阻むように立っており、その腰には数本の脇差を身に着けている。

ハルシオンが指をくいっと動かし、球体達を前方側方にかき集める。
それは攻撃重視の戦闘隊形。ここでケリを付ける気なのだろう。
…だが、その様子を見たラルクゥは小さく首を振る。

ハルシオンが意外そうな顔を浮かべる。
球体達もその場に静止するが…攻撃準備は出来ているとばかりに、内部で眩い光が生成され続けているようだ。

ラルクゥが眉を顰めた。

ハルシオンがラルクゥの胸を指差し、問う。
彼女の身体が纏う蒼い光の色が、僅かに濃厚となった。

この会話はラルクゥとハルシオンの脳内に直接訴える形で行われているため、トガノにそれらの声は届かない。
彼から見れば、ただの不穏な睨み合いが続いている状態だ。
とはいえ…双方が最後の交渉をしていることは既に察している故、特に行動を起こそうとはしない。

ラルクゥが纏い放っていた光が…徐々にその体内へと集束していく。
同時に、ラルクゥは一本の脇差を抜き放った。

ハルシオンが高らかに指を鳴らすと…球体達が一斉に輝きを強め、光線や光弾等様々な攻撃を放ち始める。
ラルクゥの元いた場所には抉れるような大穴が開いた。

手を振り払い、無色透明な球体をトガノに押し付ける。
トガノはそれを大切そうに懐へと潜り込ませ。

ニヤリと笑い、一瞬にしてその場から姿を消す。
これで部外者は消え失せた。始まるのは、完全なる身内同士の決戦だ。
…より一層、周囲の緊張感が高まり、双方の五感が極限まで研ぎ澄まされていく。
今は僅かな衣擦れの音すら聞き逃すことはないだろう。

　褐色に近い浅黒の肌、呪紋にも似た民族的な刺青、鍛えぬかれた精悍な体躯。
　なるほど、これが"ラルクゥ"。想像に違わぬ女丈夫だのう？

　狐は口端を釣り上げて嗤う。
　遥か過去、轡を並べて戦場を駆けた女武者"巴"を彷彿とさせる清冽な気迫が、とても心地よい。
　あれも化け物だったが、これも一方ならぬ化け物だ。

　——ああ、こわいこわい。　

　くすくすと、声にならぬ笑みを綻ばせ。
　ハルシオンの幻像を駒の如く前へ進ませる。式蜂で通し視た彼の一挙手一投足、癖に至るまで再現して。
　そも、本人の髪を媒体とし、対峙者の記憶を被せて補正される幻を見破るには、相当の確信を必要とするのだが。

　緊張、視線、発汗、立ち位置。動揺の片鱗は見て取れるが、流石は歴戦の将軍か。
　急速に頭を冷やし、次の一手を考えようとする機転の早さ。たいしたものだ。
　しかし、そう容易く余裕を生ませてやるつもりはない。幻術は、相手の思い込みを利用する術だからだ。

　みしり、と。ハルシオンの動きに合わせたかのように、宿の壁へ亀裂が走った。
　表情も仕草もとても自然ながら、彼が怒りを抑えきれないでいるとでもいうかのように。

　ツヅミの思惑と並列して、幻像は淡々と女将軍と会話を交わす。
　あえて逃しのだと告げ、泳がせて何をするか見極めようとしたこと、ハルも此処にいるということ。
　心理的に追い詰めて、余裕を失わせ、自爆に誘いこんでいく。
　

　突き刺すような瞳。周囲に浮かぶ球体が、重厚的な明滅を繰り返す。
　何が目的かなど、もう知っているだろうと。王の如き傲慢さ、圧倒的上位の威圧で通告を投げかける。


　だが、一瞬——。……狐は、狐らしからぬミスをした。


　愛と忠誠を捧げる"主"を利用した自分に、戸惑いを覚えたのだ。
　かつて、過去の主"義仲"を利用した時でさえ、斯様な動揺を感じた記憶は無い。
　友と感じていた巴に激しい憎悪をもってなじられてすら、何の痛痒も感じることはなかった。
　それは、己が人間ではなく"妖"であるからだと。納得していたはずなのに。

　有り得べからぬ失態。感情の乱れは幻像の結び目を綻ばせる。
　速やかに結び直すも、目前の女将軍が気づかぬはずもなく。

　女将軍の異能のせいか、鱗が剥がれるようにハルシオンの幻像が壊れていく。
　潰されゆく妖力を感じながら、少年の口を通して語りかけた。

　対峙した時の態度、間合い、初動の幅、位置、対応した言葉の一字一字すら情報になる。
　故に収穫が無かったわけではないが、最終目的を完遂出来なかったことは残念極まりない。
　

　呱々、と低く忍び笑いを響かせて。

　『勝手ながら、そなたを煽りにきた』
　朽ちゆく少年の姿が狐面を貼り付けたように歪む。同時に、塵となって大気に溶け消えた。

　気がつけば、寒宿の窓は元通り。壁には亀裂もなく、古びた染みが浮かぶばかり。
　景色は透明に晴れ渡り、階下の喧騒が牧歌的に響いてくる。

　それこそ、まるで狐に化かされたように——。




　狐は、ゆっくりと瞼を開く。
　暗闇からまろびでた、可愛い主の心配そうな眼差しへにこりと返し。

　返事を得るまで意識を残せなかったが、あれでも動かないなら主の役に立たぬ者と見捨てよう。
　生粋の武人でありながら、情を殺しきることも出来ず信念の底に眠らせている女傑。本当に、巴にそっくりだ。
　それだけに惜しいとも思う。あの女将軍に、仲直りも出来ず死に別れた友人を重ね見て。

　感傷を引きずったまま主に頬ずりで甘えて養分補給していると、不意に囁かれた言葉に絶句する。
　何を言われたか理解する間もなく、背を軽く叩いて歩き出した彼に目線を送り。

　慌てて駆け出す。遅れないように、隣へ並ぶように。

　未熟未熟と反省しながらも楽しそうに、腕へ腕を絡めてもたれ掛かる。
　とても、幸せそうに。