いつかの日のことだった。
　いつの日かはわからない。
　ここはいまだ時間の立ち入らぬ場所。
　《過去の咲く庭》。

　草の上を歩く。
　二人して。あるいはその手と手を繋いで。
　そのころの彼はまだ彼らしいところの少ないものだったかも知れないし、そうではなかったかも知れない。
　既にしてほとんどのところを彼らしく——そう見做されるものをずいぶん備えていたかも分からない。いまや誰も覚えてはいない。
　緑が続いている。
　木々と草。
　辺りには奇妙なほど花が少ない。

　ないではなかった。
　けれどそれらのすべてがいずれも黒一色、ただひとつの姿かたち。
　どれも同じ花が、それぞれまったく唐突に、明らかにそのものではない草々の合間から首を伸ばしている。
　茎と萼、花弁とそれらしくはある雄蕊と雌蕊、かすかの蜜、甘い匂いがその花のすべてだった。
　花々は蕾から散り始めたものまで、己の花期も知らぬかに咲いている。

　このころにはまだ、彼の歩きまわれる場所もそう多くはない。
　どこかで立ち止まることになる。
　彼はやんわりと首を振る。私は行けないよ。
　彼女は振り返る。
　戻ってくる。
　なぜ、と訊ねることもあっただろうか。

　二人の一緒に暮らすようになって、まだ日の浅いころのことではあった。
　
　彼女は彼にいくつかのことを訊ねていた。
　彼は話した。

　この庭は私のもの、ということになっている。
　きみはあの黒い花のなかに倒れていたんだよ。
　ただ私と、案山子が一本いるきりさ。
　ここのものは何でも好きに構わない。
　私には、まだ出てはいけない場所がずいぶんあるんだ。

　彼女がふと、何かを見つけた。
　小さな板切れ。
　金属で出来ていて、表面には軽く塗料が塗ってある。端々には錆が浮いている。
　取り上げる。
　軽く手で払う。
　文字が書かれている。

　読み上げる。

「……"Yard"……？」

　その前後にもどうやら文字の欠片は見え、けれど、板が途切れていて判読できない。
　彼は答える。

「この庭の、持ち主の名前だよ」

　彼女は瞬きをする。
　ヤール。
　もう一度口のなかに音をくり返す。
　それでは、あなたはヤールという名前なの。
　彼が頷いたかどうかはわからない。
　ただ笑って彼女の手に触れ、二人ともにまた歩き出したという方が、ありそうな風景ではある。




　またいくらかの時間が経つ。
　いま一人の影がふらりと現れる。

　恐らくは夜、外は雨、風雨の奥底からは幾筋かの雷の音。
　強く戸が叩かれる。
　鍵はかけられる前から、錠がなかった。

　ドアが開く。傷んだ蝶番の軋む音。
　くぐもって硬い靴音。
　いくらかの声がある——名乗られる言葉。オルガ・オルガノール。
　
　暗闇のなかから、彼はその声を振り返った。
　名を訊ねられる。
　彼は答える。

　私はヤールと呼ばれているよ。

　



　そしていまでは《過去の咲く庭》と呼ばれる三人が、同じ名前をした庭をぶらぶらと歩いていた。
　かすかに熱を持った日差しのなか、木と草、そして埋め尽くすように咲く《ノール》の花が風に揺れている。
　辺りには鳥の声も虫の声もない。
　いくらか離れた場所に一本の案山子がひょこひょこと飛び跳ね、土をいじったり水をやったり、甲斐甲斐しく花の世話を焼いている。

　やがてオルガが、ん、と声を上げて足を止めた。
　屈んで、何やら拾い上げる。
　それはひどく傷んだ金属板で、表面には黄ばんで剥がれかけた白い塗料が塗ってある。
　いまやすっかり錆だらけで、赤茶色のまだら模様に覆われていた。
　それでもいくらかの字が見て取れた。オルガが読み上げる。フィガロがその手元を覗きこむ。
　彼は小さく声を立てて笑った。

どこをどうたどってきたのか、一通の手紙が届く。
宛名も宛先もわからない。なにせ貴方は目が見えない——

しかし、貴方宛だということも、誰から送られてきたかということも、貴方は判る。

分厚い手紙の中身には、いつか貴方が市場で手に入れた、
あの香茶がぎっしりと詰め込まれていたのだから。

彼は遠くの空に誓った。

唇を彼の手に預けたまま。
不意に呼ばれる名に目を丸くする。
彼の手の下、唇がぴくりと動く。
きゅ、と彼の手を握る己の手指に力がこもる。

彼の手の下、まるで唇を彼から隠すようにしながら。
考える端から言葉にするように、たどたどしく言葉をつむぎ始める。

彼が笑う。声を立てて。
けれど指先は静かに唇に触れたまま、震えもしないで錠前の役目を果たしている。

彼の言葉に、ふと、問うた。

言い終えたあとも、彼を見上げている。
その、薄く湛えた笑みの向こうに、何か浮かぶものがありはしないかと。
その頃には、彼の手を取ったまま、けれど唇からは離して。
捧げ持つように、ただ触れているだけになっていた。

その手にそっと、顔を寄せ。
触れるような口付けを落とす。うやうやしく。

約束、と小指を立てる。彼の指に、絡める。
指きりげんまん、と歌う声は、「これから」が何回だってあると屈託なく信じていた。

そろそろ夜が明ける時間だ。

随分と長く話していたようだ。
朝日に気づいて、急に眠気が襲ってきたかもしれない。
彼の膝を借りて少し眠ってしまったのだろうか。
それとも、送っていくと手を引いて歩き始めたかもしれない。
それは、二人にしかわからない。
けれど、日が頭上高くを通る頃には……そこにはもう、誰もいなかった。
そよそよと風に揺れる夏草の、その木陰の一角。
そこだけ、二人がいたことを示すように。二人の足の形に、草が倒れているばかり…。