小さな小さな妖精が、赤毛の仔犬に語り掛ける。
その様子はとても楽しそうに、まるで弾むような声音で言葉を紡ぐ。

一片の悪意も無い、一片の害意も無い。
ただ純粋な"興味"と、そうある事の"必然性"で持って、妖精は問い掛ける。

仔犬が、小さな唇を開いた。目の前の小さな小さな妖精に語り掛ける。
ひどく怯えたように、水に濡れた鈴を鳴らすようなか細い声音で、言葉を紡ぐ。

一片の悪意も無い、一片の害意も無い。
その妖精の言葉は、しかし甘い毒蜜のような響きで持って囁かれた事を、仔犬の大きな耳は聞き取った。



恐ろしい事になる。



この妖精の話を聞いてはいけない。
とても恐ろしい事になる。


何を奪われるか分からない。


何を無くすか分からない。


自分にとって大切な物をいくつもいくつも無くすかもしれない。



・・・そう、感じた。

背筋に冷たい氷を差し込まれたような、ひどく冷たく荒廃した物が、仔犬の胸の中を占めて行く。
強靭な彼女の身体を、まるで恐ろしい疫病のように、強張らせているのは・・・


・・・その実、"恐怖"だった。





逃げなければならない。逃げなければならない。逃げなければならない。

彼女の生存本能が逃亡を告げる。

小さな心臓は早鐘のように脈打ち、氷のように冷たく感じる身体からは、しかしとても冷たい汗を流している。
口腔はひどく乾き、最早一滴の唾液さえも分泌されない。
彼女の紅桔梗色の大きな双眸は、まばたきさえも許容されない程にひどく見開かれている。


・・・・しかし、彼女のほそく震える二本の足は動かなかった。









──いや、正確には、"動かさなかった"のだ。



彼女は、このひどい恐怖を前にして、確信した。

"これは、本物だ"と。

今まで出会った大言壮語を吐く魔術師などとは違う、もっと根本的に"異質"な・・・


本物の、"脅威・驚異"であると。

彼女の、恐怖に見開かれた双眸が、僅かに細められる。

目の前の妖精を強く見据える。



小さく震えていた両手が、とてつもない力で強く握り締められる。

爪が突き刺さり、血が溢れる。



凍えてしまいそうな程に冷たかった心と身体に、燃えるような熱さが灯る。

彼女の名はルビー。"愛の炎"の石言葉を持つ真紅の宝石。







・・・・もし、目の前に、自分の願いを叶えてくれる存在が居るのなら。



・・・・・・・・"その願い"を叶える為に、何の犠牲を厭う事があるだろう。



・・・・・・・・・・・・・例えその為に命を捨てる事になったとしても。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・主人から与えられた"RUBY"の名に、恥じ入る所はない。

それは"闘志"か"覚悟"か。
妖精よりもずっと大きく、遥かに矮小な存在の一匹の仔犬が、

ひどく壮絶な強い視線を、妖精に投げ返した。






















・・・・・・彼女の願う事など、他にありはしなかった。


苦痛と恐怖にまみれ、死を願っているばかりだった地獄から、自分を救い出してくれた主人。

血と泥と埃にまみれ、字の読み書きも出来ず名前すら無かった自分に、温かな居場所をくれた主人。

孤独と絶望の中で、まさに消えようとしていた命を、その両手で救い上げ、そして世界の美しさを教えてくれた主人。


その主人の恩に、どんな事をしても報いたいと彼女は思っていた。


主人が病の床にあるのなら、彼女は幾晩でも寝ずの看病を続けるだろう。
主人に敵が居るのなら、彼女は危険も顧みずその者を打ち倒すだろう。
主人が飢えているのなら、彼女はその身を火に投じる事さえも恐れまい。


そして主人が、あの頃の彼女のように、孤独に震えているのならば・・・・

・・・あの頃の主人がそうしてくれたように、そっと側に寄り添って、優しく抱き締めるだろう。



それ故に・・・















最早、彼女の心には恐怖など残っていない。
とても静かな気持ちで、妖精を見つめている。
・・・・その口元に笑みさえをも浮かべる程に。

彼女は、腰の後ろのナイフを抜き放った。

彼女の瞳は、最早狂気とさえ呼べる意志に染まっている。
それを愛と呼ぶのか、執念と呼ぶのか。
たかだか十の齢を重ねた仔犬が持つには、それは余りに壮絶な感情だ。

彼女の持つナイフが、彼女の腕に食い込む。
よく研がれた薄い刃が皮膚を切り裂き、鮮血を滴らせる。

鋭い切っ先が彼女の太腿に浅く突き刺さる。
再び鮮血が滴り、彼女の足を伝って行く。


しかし、彼女はその痛みに怯む様子さえ見せず、強い意志を込めた瞳で妖精を見据えた。



側から見れば、狂っているように見えるかもしれない。

血も繋がっていない他人に、どうしてここまでするのかと。


側から見れば、愚かに見えるかもしれない。

自分の命より尊い物など、この世には無いと。


しかしそれでも、彼女は選択した。
己の小さな命の灯火、その全てを賭けて、主人の恩に報いると。