「久しぶり、スギ」

そう言って、俺の目の前に立った紫鯤がうっすら笑う。その表情に幾らか影がさしている。普段のぼんやりした、悩みのなさそうな笑顔はすっかりなりを潜めていた。目の下には微かにクマも浮かんでいる。
良くない兆候だ。精神的に相当参っているらしい。
それだけ彼の「適応」が進んでいることなのだが……こんな表情もできるようになったのかと、感心している別の自分は引っ込めておく。
もう少し早く来るべきだった。奴らの目を逃れるのにかまけて遅くなってしまった己を呪う。多少リスクを払ってでも、俺は早くこちらに向かうべきだったのだ。
「体は大丈夫か」
「ん、何とか。……今のところは、いつも通り行動できるよ」
ただ、と、紫鯤の顔が更に曇る。
「最近、服の裾とかから、私の『目』が覗いてくる事があってさ。妙だよね、私の体の一部じゃないのに……変なものが見えても、あんまり驚かないでくれると嬉しいな」
「ああ、心配するな」
本当のところそれは予想できていたし、以前散々見たことのある光景だった。だから実際にここで見たとしても俺はさして驚かないだろう。
しかし忘れてはならない。紫鯤はそれを「知らない」。
驚きつつも隠そうとしている、という素振りぐらいは見せる必要があるだろう。
「お前の仲間達は」
「……皆、驚いてたけど、いつも通り接してくれてるよ。気を遣わせちゃって、申し訳ないけど……正直、すごく、助かってる。今晩、皆にスギを紹介するね」
「ああ」
遠目にだが、紫鯤の仲間達については目にしていた。弓を携えた金髪の青年と、鳥の帽子を目深に被った青年。そして彼らの周りをいつも走り回っている、狸とも猫ともつかない少女。
紫鯤から度々話は聞いているが、こうして目の当たりにして、改めて安心する。
紫鯤が一人旅を始めた時に俺が案じたのは「妙な奴に捕まって力を悪用されたりしないか」ということだった。それは紫鯤がメルンテーゼに行くと言い出した時も同じである。だが、少なくともここには、俺が懸念していたようなろくでなしは一人もいない。
紫鯤の「アレ」を見てもなお彼を受け入れているというなら、まだしばらくは安心できるだろう。
……しかし、これからどうしたものか。
紫鯤の後について歩きながら、俺は考え込む。
「あのさ、スギ」
外装の維持すら不安定になっている。中身がどれだけ設定から変質してしまっているか想像もつかない。
「スギ、聞いてる？」
外装がおかしくなる弊害は他にもある。紫鯤の自意識は本来相当に不安定だ。あの姿にあの名前とあの性格、それらを全て織り込むことでようやく今の彼がいる。彼のような存在にとって姿の揺らぎはそのまま内面の揺らぎに繋がる。
「ねえ」
早急にメンテナンスを行わなければなるまい。問題はどうやって長時間二人きりになるかだ。流石に彼の仲間達にメンテナンスの様子を見せるわけには
「スギ！」
肩を掴まれてようやく、俺は我に返った。
紫鯤が不安げな顔で俺を見ている。
「どうしちゃったの？　さっきからずっと怖い顔して」
「……悪い。これからの事を考えてた」
紫鯤の呼びかけに気がつけないぐらいに考え込んでいたらしい。そう言ってどうにか誤魔化す。
「……もう、聞きたいことあったのに」
「悪かったって。何が聞きたいんだ、言ってみろ」
俺がそう言うと、紫鯤は少し間をおいてから、妙に低い声で続けた。
「『庭園』って、魔術結社、知ってる？」
思わず声を失う。
知らない訳がない。
彼が一人旅に出るまでは、慎重に紫鯤の耳に入らないよう注意していた存在だった。
紫鯤が帰れなくなってからは接触の危険性が減ったものと判断して、以前ほど気を払わずにいた。それが災いしたか。
「……ああ、知ってる」
こういう時、自分の仏頂面に感謝する。動揺があまり表に出ない。
「一応知り合いがいるが、内部の詳細までは知らん」
「……その人にも、あの子のことは聞いた？」
「ああ」
あの子。
紫鯤が「妹」だと信じている女性。
「だが、『庭園』は規模が大きい割に変なところで秘密主義でな。構成員についてはプライバシーがどうとか言われて教えてもらえなかった。だから、お前にも報告していなかった」
「……そう、それなら、いいんだ」
小さく呟いて紫鯤が肩を落とす。
「そこがどうかしたのか」
「いや、ちょっと、話に聞いたからさ。気になっただけ。ごめんね」
それだけ言って、紫鯤は俺から視線を逸らし、黙り込んでしまった。
俺も無言で、彼の隣に並ぶ。今は、下手に声をかけない方が良さそうだったから。


「ねえ、スギ」
少しして、不意に紫鯤が口を開いた。
「どうした？」
「私の、今の名前を考えた時のこと、覚えてる？」
視線をどこか遠くに向けたまま、紫鯤が聞いてくる。
「……ああ、覚えてる。お前が首から下げてる、その石から姓を取ろうって話をしただろう」
忘れるはずがない。
「そうだったことにした」のは俺なのだから。
「……そう、だよね」
紫鯤が、胸のペンダントを握る。艶のある、大ぶりな水晶だ。無色透明なその中に墨色と濃い紫色が幾筋も流れを描いている。
俺の出身世界で最も古い砂漠、ナミブ砂漠。そこにはブランドバーグと言う名の、オアシスの山がそびえ立っている。
皮肉にも「炎の山」と名付けられたオアシスからは、色鮮やかな紫水晶が幾つも産出した。紫鯤が首から下げているのがそれだ。この産地のものが一番彼と相性が良かったから、彼の姓はその産地名をもじったものにしたのだ。
「ブランドバーグは『炎の山』、だったよね」
「ああ」
「それじゃあ、さ。ナミブって、何か意味あったっけ。私、漢字を当てて、一番あとの名前にしてるけど……地名ならさ、何かあってもおかしくないと思うの」
「さあ、知らないな。俺もお前も、そこまでは調べなかったろう」
「……そう、だよね」
紫鯤は振り向かない。
だから彼がどんな表情をしているのかは、俺には分からなかった。


紫鯤には嘘をついてしまった。
本当は知っている。俺はそれを知った上で、一種の皮肉として彼の姓にしたのだ（今思えば、何と愚かなことをしたものか）。
だがその意味は彼にとって、追い打ちになりかねない。だから言うわけにはいかなかった。



ナミブ。
それは現地の人々の言葉で「何もない」という意味だった。

そう言って笑う紫鯤の傍らに、眼鏡を身につけた男性が立っている。
キツい目元に仏頂面で、見るからに取っ付きにくそうな雰囲気を漂わせている。

ニヤニヤしながら

妙な晴れやかさのある笑顔

男は何かぶつぶつと独り言を言っていたが、やがて一つ深呼吸をし、声を張り上げた。

声色は明るいが、その声にはどこか不自然さがある。

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