名を呼ばれ、男は僅かに先行していた足を止めて振り返った。
平原から水辺へ。方向転換して以降、ずっと歩きっぱなしだ。
流石に疲れたのかとその表情を伺うと、視界には、見るからにしょんぼりとしてしまった彼女の姿が映った。

ぽつりぽつりと、涙と共に零れ落ちる彼女の苦悩を聞き。
謝罪の言葉が男に向けられれば、赤い瞳を丸くして、どこかぎこちなく首を横に振った。

「…おれには謝んなくていーよ。好きで付いてってるし、見返りはそれなりに貰ってるし？
　人と人が争うような世界に来たのも初めてじゃねえしな。勿論、そりゃ、平和な方が楽でいいけどさあ」

争いごとはあんまり好きじゃねーから、とは冗談交じりに。
もちろん、世相が安定している方がおいしいものも得やすいことも知っている。
かつては此処もそうだったのだろう。彼女のようなおいしいもの好きを、生み出すぐらいには。
過去に足を運んだ世界を脳裏に思い描きつつ、男は慣れた調子で、さらに言葉を紡ぐ。

「ラルフと……ルリアンナ、特にあいつは軽い調子だったもんなあ。
　戦争って感じには思えなかったし。それはおれが、他人事気分で参加してるからかもだけど」

一呼吸おき、

「ネクター？だっけ？を王様が何で独り占めしてるのか解らんし、
　それが無いことでこの世界の人がどんな苦労するか、体感してねーから何ともいえねえけど。
　一つハッキリしたことは——向こうはこの一揆に参加してる奴らを、皆、敵だと思ってる。
　この先もきっと、似たような相手と戦うかもしれねーってこと」

ぺらぺらとよく回る舌が、そこまで来てふっと鳴りを潜めた。
かぞ、く、と言いなれぬが故に怪しい発音になった単語を一度飲みこみ、
迷った様子でもごもごと口を動かしてから、改めて言葉に作り直す。

「何はともあれ、…村に戻んだろ。
　おとーさんおかーさんとかと話して、一揆続けるか止めるか決めんだな。
　あー。安心しろよ。止めることにしても、嘆願書はおれが持ってってやるから」

そうして、故郷を心配する彼女にきっと平気だろ、と幾許か柔い声音で告げる。
特に根拠があるわけではなかった。でも男はそれしか言葉を知らなかった。
ぽんぽんとたまご色の頭を撫でてやってから、彼女のその手を取って歩き出す。
人であったなら、また違う言葉を思いつき、口にすることが出来るのだろうか。


ああ、ならばせめて。
彼女が泣き止むまでは振り返るまいと、男は緩やかに前へと歩を進めた。

兵士との一線をまだ引きずって、浮かない顔をしていたその道中。
彼の差し出したそれを目にした途端。

さっきまでの浮かない顔は、鮭の前では綺麗さっぱり吹き飛んで。
嬉しさのあまり、羽毛をぷわっと膨らませながら弾んだ声を上げる。

想像するだに興奮してきたのか、ふくふくと羽根を膨らませたまま、足元はちょこちょことしきりに足踏みを繰り返して。

ツッコミを待っている。

呆れたように、エンブリオがくるくると舞い、小突くようにちょんと頭に触れてゆく。
少女の持つ羽根ペンに留まると、エンブリオの姿は溶け、ペン先に色が宿った。