3.
　翌日、セバスチャンの主人であるラドアールは旅立ちの時を迎えていた。鳥たちの囀りが彼の旅立ちを祝福するかのように辺りに響きわたっている。執事たちはハンカチを持って自らの涙を拭いている者もいれば、普段と変わらない姿で静かに、これまで成長を見守ってきた少年のことを見つめている者もいる。そして常にラドアールの隣にあったセバスチャンは今、主人の父であるセオドアの寝室で、部屋の主に別れの挨拶をしていた。

一つ間を置き、セオドアは弱々しい腕で一つの場所を指した。

　そこには黒い箱。木で作られたものでもなく石で作られたものでもない、少なくとも自分自身が知る限り、このような物質はどこにもないと直感するほどの異様な雰囲気を纏う箱である。しかし主人の父であるセオドアの命令に逆らうというわけにもいかず、セバスチャンは反抗心を持ちながらも忠実ににその箱を持ってセオドアの前に置いた。



　するとセオドアはその箱にそっと触れながら語り始める。

そうして彼は、黒い箱の中に入っていた機構をその体に組み込まれた。セオドアの手によって。

瞬時、"ソレ"の声が体内に響き始めた。次々と流れる多くの数列、別次元の文字。
それらは一つの頭脳となり一つの身体となり一つの心へと変化していった。



シール解除……




動作確認……




数点の問題発見……



修正プログラムダウンロード開始…………



ダウンロード完了……



インストール開始……




　その声はセバスチャンと似た声を持っていた。否、"ソレ"はセバスチャンの発声用スピーカーから発せられていた。身体を乗っ取られていると実感した。しかしそう知りつつも抵抗することはできない。否、そうプログラムされていた。

沈黙。ややあってセオドアが口を開く。

そういって彼はその部屋を後にした。



………………………………………………………


　…………音もなく、声もなく。ただあるのは部屋に漏れ続ける太陽の暖かな光。ラドアールの旅立ちを祝う光のはずが、セオドアにとっては禍々しいものに変わりなかった。そして彼の視線は太陽の光の中にある写真立てを見つめていた。その写真には中年の男、若い女性、そして二人の少年が写っている。

　積年の恨み、後悔の念、様々な思いがこもったただ一つの言葉。もしこの世に天国と地獄があるならば私は地獄に落ちるべき立場なのだろう、とセオドアはと自嘲する。自分がいなくなったとしても、彼だけは……彼だけは……何としても守り通さなければならない。このグリース家のためにも。そして"彼ら"のためにも。

　そして、老いた男はベッドの上でまた一度眠りを重ねる。眠る時間は日々少しずつ長くなっており、命の蝋燭も尽き掛けている頃だろう。


　しかし、それでも彼は生き続けなければならない。グリース家を破滅から守るために————。


























4.

　天候は曇り。雲と雲の間に少しだけ太陽の光が漏れているが、それはすぐ消えてしまう。それが幾度も繰り返され、時がただ過ぎていく。辺りは田圃が多く、どこからか蛙の声が聞こえてくる。そしてその側を歩いてるのは大きな剣を持った少年と白い球体のロボット。


　グリース家の屋敷から旅立ってから、三日程は経っただろう。主人の父からの貰った黒い箱を自分の体に組み込まれた時以来あの声は全く聞こえないままだ。

　いや、訂正しよう。確かにあの声は全く聞こえなくなったが、代わりに聞こえるようになった音がただ一つある。

それは……、機械である私にとって不気味な音。それは機械の電子音ではなく……少なくとも機械から発せられる音ではない。

　それは、まるで、"人間の心拍音"だった。



　ドクン……ドクン……ドクン……ドクン……



　ずっとこの音が体の中に響いている。

　先日坊ちゃまにメンテナンスをしてもらった時はどうにか誤魔化すことが出来た。ただそれはいつまでも誤魔化しきれるものではないだろう。何故なら、少しずつ少しずつ、自分の体が最適化されているからだ。具体的に言えば、体のパーツとなる多くの機構が別の形へと変わってきてるのだ。今はまだ主人の側にいられるが、これからも……というわけにはいかなくなるだろう。何故なら……私は……、もうすぐ"私"ではなくなってしまうからだ。

　そうして私たちは影でこそこそと準備を進める。草むらの隙間から少しだけのぞき込むと、褌一丁で体浴びをしている兵士が二人いた。彼らは気持ちよさそうに体を洗っているが、パンツの質はよくない。何故ならそれは土埃だらけで、しかも数ヶ月は洗っていない汚そうなパンツだったからだ。セバスチャンは、それを写真に収めるには価しないと見た。むしろ全裸で良いのではないかと。
　そう感想を述べている間、一人の兵士がこちらを見た。

　しかし、勝負はあっという間だった。






　私たちは負けてしまったのだ。






　短い激戦の中、一人は倒したのだが、その油断のせいか、坊ちゃまが斬られてしまったのだ。浮いた体から血が大きく飛び、湿った地面に落ちる。そして少しずつ土と混ざり合い、赤色に染まっていった。彼が地面に落ちた瞬間、私はそれを見て叫んでしまった。

　ずっと想ってきた大切な人を……大切な命を……ここで失うことだけは許されない。その思いが、自分の中にある何かが呼応したのか自分の体の中から大きな心拍音が聞こえてきた。

　自分の体から別人の声が聞こえてきた。これはシステムの音だろうか。いや、今はそんなことどうでもいい。今はあの兵士から逃げなければならないのだ。そのためならどの手段だっていい、なんとしても藁を掴むような思いで願った。


　願ったその先……そこには恐ろしい結末が待っていることを知らずに。

………………………………………………………

　天候はいつの間にか大雨へと変わっている。その中で重傷を負った主人を背負った丸い機体セバスチャンが力を振り絞って移動している。彼らは辛うじて兵士から逃げ切ることが出来たのだ。

　ただ、負けてしまった代償がこの有り様だ。暫くしてセバスチャンは人気がない場所に主人を降ろし、応急処置を施した。しかし、このままだと雨が主人の傷に障るかもしれない。そう察した彼は辺りに大きな葉っぱと薪を集めて簡易的なテントを作った。次に小さい薪を集めて、セバスチャンの体内にあるライター機能で火を点けた。するとテントの中が少しだけ暖かくなり、ラドアールの表情が少しだけ落ち着いた。


　数刻後……、ラドアールが目を覚ます。

　そう言い切る前に彼の瞼がゆっくりと閉じていき、眠ってしまった。彼は健やかな笑顔をしている……けれどどこか苦しそうな気持ちがある。



　そう、私たちは負けてしまったのだ。









to be continued...