夢を見た。
遠い世界の、真っ暗な海辺。

今よりずっと幼い姿の自分が、長い黒髪の女性を見つけて駆け出した。
女性が振り返る。胸元の開いたスマートなドレス姿。鎖骨の下に十字架を模ったタトゥが見える。
その胸元に飛び込んで、抱きしめる。
白い腕が緩やかに回され、優しく私を抱きしめ返した。
このどうしようもなく世間に見捨てられたスラム街の中で、母のようだった、人。
工場区域に近い酒場でシンガーをしていて、その声が酷く美しかったのを覚えている。

「—————さん。」

ノイズが掛かる。
それは、その人の名前だろうか。
幼い私が何度も嬉しそうに名前を呼ぶ。
その名前だけが聞こえない。

そして、
見上げたその顔は
虫食いのように黒く、穴が開いていた。

その人が塗り潰された顔で“にっこりと笑う”
そして手に持った物で私の脇腹を撫でた。
ちくりとした痛みに思わず飛びのき、呟く。


「どうして？」


夜の風にスラムで流行っていた濃い麻薬の香が混ざりこむ。
その人が、美しい声で笑う。
ごめんなさい、と笑う。
笑う。
わらう。


酷い脱力感にふらふらとたたらを踏み、後ろに倒れこむ。
ばしゃんと水音が響いて、ぎゅうと目を強く瞑った。

ゴミが散乱し、お世辞にも綺麗とは言いがたい其処に私は浮かんでいる。
肋骨の隙間を通り抜けるように深く開いた傷。
肉の隙間から流れた液体が、澱みに溜まった泡を濃い色に染めていた。
空を見上げると星が見え、地平線が淡く青紫に光っていた。
喜劇のように響く透き通った笑い声が星空に混ざって、それが酷く美しかった。


これは過去の記憶だ。
私の始めの記憶。
始めの死の記憶。

私の記憶は、今やこんな虫食いが多くなった。
これのように誰かの顔や名前が抜けていたり、使っていたものの形、食べた物の味、
行った場所の景色、誰かとの約束、思い出の言葉…

魔法の素養が殆どない私に、神様がくれた力の代償。
ものを繋ぐ力。
世界を繋ぐ力。
それを行使する度に、この小さな神様は時間を食べていく。
時間とは、記録だ。
記録とは、記憶だ。


誰も居なくなった海岸。
閉じかかった目に影が映り、半ば冷たくなった身体を誰かが抱え上げた。
短い黒髪が揺れ、感情の乏しい真赤な瞳が見える。

幼い私はどこか諦めたようにも、安堵したようにも見える表情で目を閉じた。





「できる事なら貴方の事は忘れたくないわね。」

そう呟いた視線の先には、メルンテーゼに立つ白い宿の天井が映っていた。

魔女だ、と言われても顔色変えず、声がした方を見る。
黒髪の女性が近づいてくる様子を、特に身構えずに待つ。

魔女さん、と呼ばれたことに対する返しだろう。
その呼び方で合っているのかね、という具合に首を少しかしげてみせる。