いまにして思えば。
　”振り返れば”。
　おお、なんと暗示的なことだろう、万物よみな等しく平らに呪われてあれ。

　私はただ、打ちのめされたかったのだ。



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　完全に満たされた世界のなかに知恵は生まれた。
　その世界の名は充溢。充たし溢れ返るものは永遠。
　知恵は人間と教会の間に流れ落ちた。
　知恵にはいくつもの兄弟があり、姉妹があった。
　至りつけぬ高みから宛がわれた配偶者の名は欲せられるもの。
　しかしいつしか知恵は夢見るようになる、それは正しく乙女のような夢想。
　与り知らぬ至高なるものの存在を知ること。
　夢は日増しに大きくなる。
　《あのかた》のようにこの世の理を知ること。
　夢は知恵の奥津城へ根を張り、育つ。
　わたくしも同じように生み出すこと。
　やがて、夢は情熱という名の巨きな花を咲かせる。
　たったひとり、伴侶の手も借りず、《あのかた》はこの世を生み出された。
　それは叶いようもない夢……。
　花はただひとつのことさえ果たせず萎れ、枯れようとし、けれど、知恵は花の散ることに耐えられなかった。
　何もできないままそのときが過ぎ去ってしまうことに。
　枯れかけた花は震え、首をもたげ、黄金に輝く粉を白銀に光る胸に呑みこんだ。
　知恵は笑った——なぜ《あのかた》にできたことが、このわたくしにはできないというのでしょう！
　わたくしは《あのかた》の正当なる娘、《あのかた》の似姿。
　《あのかた》の威光を映す歪みなき鏡のひとつ。
　わたくしは愛しているのだ。
　愛している。
　愛している。
　愛している。
　愛している。
　愛して。
　そのことに何の罪悪が存在し得るだろう。
　知恵はただ一心に己を持ち上げた。
　己をひたすら前へと伸ばし続けた。
　そこには苦しみがあった。
　華々しき苦痛が。
　知恵の腹は醜く膨れ、いまや恐るべきほどの重量で知恵の過失を責め立てた。
　やがて知恵は己の限界へたどり着く——もはや一歩も先へは進めない。
　転落があった。
　振り返る先には境界の崖。
　知恵は悲鳴を上げた、ようやく己の仕出かしたことの正体に気が付いて。
　膨れ上がった腹は衝撃に潰れ、決してその生命を完成されることのない胎児が流れ出た。
　胎児には至高なるものの面影はひとつとしてなく、その姿は充溢を表す世界の住人の誰一人にも似つかなかった。
　その外貌にはかたちがなかったのだ。
　知恵は醜い息子の有りさまを恐れ、境界の外、世界の外縁に投げ捨てる。

　そして彼に玉座を与え、これを混沌の息子と名付けた。　　
　

大鍋に男がわずかぶつかると、すぐに振り向く。
相手が倒れたわけではないことを確認すると、男の様子に目をぱちぱちとする。

相手を誘導するよう、軽く肩に手をかけ、自分の存在と位置を伝えながら。

相手の目が見えないからか、いつもは"魔女"とだけ名乗るところを、名前を伝える。

さっき倒したマッスルポテトと持参のたまねぎでパンケーキをこしらえた夕飯時。
鮭も小さく切って混ぜて一緒に焼いて、ボリュームは抜群。
折角だからと近くで夜営している人におすそ分けしていたら。
少し離れた場所から、さくりさくりと草を踏む音が聞こえた。
振り返るより早く、波ひとつない水面を歩くような声がする。

白い人の視線は、こちらに向いてはいなかった。
人違いかとも思ったが、その視線の先にも誰もいない。
パンケーキを重ねた皿を持ったまま、彼に近づく。
人の歩むリズムとは違う、小さな歩幅のせわしない歩み。
てちてちぺたぺたという音と共に、踏みしだかれた草がぷんと青い匂いを振りまいた。
彼の前に立ち、見上げる。義眼めいた強膜を見上げ、おぼろげに先ほど不思議な問いの理由を悟って。
己の位置を示すよう、ツイ、と彼の袖を引こうとしながら。

胸の高さに持ったままの皿、その中身を賞品とするつもりのよう。
鮭とたまねぎ、それにポテトを弱火で丁寧に焼いた香ばしい匂いがふわり、皿から立ち上った。