この声を昔聞いたことがある。あの時、たしかアールは五歳だった。
この声に命を助けられたことがある。だからアールはその日から、村の家族たちに「あだ名」を付けられた。
もうあれからずっと経つのに、アールはこの声を覚えている。
洞窟の中でしずくが落ちるように、その声は頭の中で鳴って、波紋のように柔らかく、いくつも反響する。
なのに今ではその声が、まるで岩を石で穿つように耳障りに頭を揺らす。なんだか急かすように、助けを求めるように、その声はどんどん大きくなっていくが、。
声がするたび、体の奥で聞こえるもうひとつの息遣いは、レゥカルのものなのだろうか。
「……？」
耳鳴りの中で、聞き覚えのない声がした。早朝に聞く鳥のさえずりのような、澄んだ心地のいい声だ。アールは真っ暗な意識の中でその声をアールは必死にたぐり寄せた。
そしてたどり着いたわずかな暖かさと、いい匂いにうっすらと目を開ける。

目の前にいたのは助けたあの少女で、ほっとした様子でアールを見下ろしていた。きしむ体をゆっくり起こすと、ふつふつと煮えたスープが目に入り、思わず腹の虫が鳴った。



恩人の名前と料理の腕を知るのに、それほど時間はかからなかった。
少女が作ったスープを、皿まで飲みかねない勢いで一気に平らげたアールは、満足そうに大きく息を吐いた。目の前にいる少女といえば、困ったような笑顔を浮かべたあと、すっかり空になった小鍋と皿の上をお化けでも見るような目で見つめていた。
「生き返った…こんなにうまい料理初めて食ったよ！ありがと！」
そう言うと、地面に額をつけんばかりに、アールは深々と頭を下げた。
レゥシルでは食べることが生きることの全てであり、人に手料理を振舞われるという行為は他の土地の人間が思うよりずっと有難いことだ。
それが赤の他人で、しかも命の恩人ならなおさらだった。

「なんか、手当までしてくれたみたいで……悪いな」
真新しい包帯が巻かれた左腕を見下ろしながら、アールは目を細めた。
「いえ、こちらこそ。助けていただいて……」
言いにくそうに怪我のことを言われば、
「このくらい平気平気！」
心配させまいと高々と左腕を上げてみせたが、次の瞬間。体中を走る痛みに顔を引きつらせた。どうやら腕だけではなく、人一人抱えて長い時間雪道を歩いていたせいで、全身が動かなくなっているようだ。
「ああっ、だめですよ。安静にしないと」
「そ、そうみたいだ」
笑いながらも震える声でアールは言った。
つられて少女もくすりと笑って、アールはなんとなく胸がくすぐったくなった。彼女が笑うたびにひな鳥の羽毛のような髪の毛がふわふわと揺れていたからかもしれない。
「この子も、心配していたんですよ。ずっとあなたの傍を離れようとしなくて」
そう言ってチセはアールの横でうとうととまどろむオルテに向かって微笑んだ。
「お前にも心配かけたな」
低い声でそう言って喉を撫でれば、満足そうにアールの指にもたれて小さく鳴いてみせた。

「でも本当に助かった。俺村の外に出るのは初めてで、とりあえず適当に山道進んでたらこんなとこ来ちゃってさ」
アールはちびちびと舐めるように、振舞われた紅茶をすすりながら、チセの顔をちらりと見た。
顔色はずいぶんよくなったみたいだが、表情はずっと曇ったままだ。
「あのさ、なんであんなとこに一人でいたんだ？他に人はいなかったけど、誰かと一緒だったのか？」
そう聞くと、彼女の表情はさらにどんよりとした。なんでも亡くなった祖父の仕事を継いだかららしいが、その仕事がなんなのかを言う前に、彼女はまた口を閉ざしてしまう。

「いや、言いたくないならいいんだ。会ったばっかりだし話したくないこともあるよな。ええっと」
アールは少しだけ待って、ちらりと顔を上げると少女を伺うように数回まばたきをした。
「そうだ名前。名前は、聞いてもいいよな」
「チセです」
「チセ」
名前を噛みしめるように反復しながら顔を上げて、
「いい名前だな。俺はアール。レゥシル村ってとこから来たんだ」
鼻の頭をかきながら言った。
アールの言葉にチセは灰の大きな目を丸くした。
「レゥシル村？どこですか？」
「ん？ここからずっと東にある山ん中だ」
「聞いたことない…」
不安そうな顔を浮かべるチセに対し、アールは見えるはずもない東の山を「あの辺」と小屋の窓越しに指差して事もなげに返す。
はあ、とチセは生返事をしながら指の先を見たが、視界の悪い雪空の中には山なんてひとつも見えるわけもなく、やはり訝しげにアールへと視線を移した。

「アールさんはどうしてまた、こんなところに？」
チセの問いに、アールは先ほどまで明るかった表情をわずかに引っ込め、額の布の位置を確かめながらもごもごと口を動かした。
「……まあ、色々あってさ。行かなきゃいけないところが、あるんだ」
うわ言のようにそう呟くと、不安げな表情をゆらゆらとした紅茶の中へ落とした。背中の羽がむずむずとして、居心地悪そうにアールは座りなおす。

「あ、あのさ」
アールは熱のこもった表情でチセと目を合わせたが、耐え切れずにすぐ紅茶へと視線を戻した。
しかし声音ははっきりとしていた。
「チセがもしよければ、近くの町まで一緒に行っていいかな。さっきみたいな時に助けてやれると思うんだ」
再び顔を上げる。今度はしっかりと、少女の灰色の目を見た。
「会ったばかりでこんなこと言うのもおかしいよな。でも、俺村出てからずっと一人でさ。一緒にいてくれると、心強いっていうか……」
年の割には大きな体を小さく丸めてチセを見上げると、所在なさげにぼさぼさになった頭を掻いた。さきほどまでの晴れた表情はすっかり消え、チセと同じく不安の色を浮かべていた。
「情けないけど、一緒にいると安心するんだ」
乾いた喉から絞るように言うと、そっと左腕を押さえ、目を伏せた。
二人の間を照らしていた炎はが一層明るくなったかと思えば、晴れてきたのか窓の外から薄らと頼りなさげな光が入ってきていた。
それでも俯いた少女の顔は、こちらからではよく見えなかった。

チセに駆け寄ると目線を合わせるように屈み、

声を詰まらせながら顔を俯かせた

男はキズだらけで、目は血走っている。
手には短刀が握られており、それをアールに向かって構えている。

（どうやら強盗のようだ。
　だが男はやつれており、武器を持っていると言っても見るからにふらふらである。
　返り討ちにしようと思えば捻りあげられるだろうし、
　金を渡せば大人しく帰るだろう。…）

道すがら、空高く、舞うように飛ぶ鳥の影を見付けた。
大きく広げた翼で羽ばたき、ゆっくりと円を描くように、自由に。
そうした姿を、ぽかんと口を開けたままで、ぼんやりと見上げながら、歩いていれば、だ。
足元の段差に気付くことはなく、そのまま、がくん、と、体勢を崩した。

──べしゃり。

体勢を立て直す間も無く、ひょっとすると目の前で、派手に転ぶ。
両手で抱えた買い物袋のお陰で、手をつくことも出来ずに。

興味を惹かれていたとはいえ、他人のエンブリオを気安く触らせてくれとは言えない。
なので、まさか触らせてくれるとは思ってもみず、目の前の鷹と屈託なく笑う少年を
交互に見やる。

随分と無防備なんだな。

そんな事をぼんやりと思いながら、撫でられ幸せそうに目を細める鷹へ手を伸ばし
先ほど少年がやったように、喉元をそっと撫でた。

見ず知らずの他人に触られているというのに、騒ぐどころか気持ち良さそうに撫でられている姿に
こちらまで微笑んでしまった。

鷹にすっかり夢中になってしまい、名前も名乗らないとは失態だ。
ひとつの事に気が向くと他を忘れる。
昔からの、悪い癖だ。

それほどすぐには警戒心も解けないのか、
差し出された右手に振れる距離にまでは近づかなかったが…

言葉は通じるらしい、名を問われると

——目の前の男は山の鳥に似た声を上げた。
——だが、人に見える。

それを不思議に思っているのか、じぃっと興味深そうに相手を窺い。

勝負に負け、連れの少女を取られて不機嫌そうにしているあなたに
ブラックは笑いを堪えながら声をかけた。

そう言って愉しげに肩を揺らす。