— 見えない

— この辺りにいる事は間違いないというのに

— 奴の気配が、酷く薄れている
— 奴の匂いが、より強い芳香にかき消されている

— どこだ
— どこにいる




雨が降っていた。

小粒の、霧のような雨が、音も立てずに大地を濡らしていた。
見れば、薄い雲が空全体を覆っている。
その背後に隠しているのだろう陽の光は、その甲斐もなくやんわりと姿を見せており、
更に切れ切れと開いた雲の隙間からは一層強い光が差し込んでいた。
一見すれば、晴れているというのに、大地はうすらと染みを広げてゆく。そんな奇異な天気だった。

空全体が薄い金色に斑う中で、小粒の雨は次第にその体を増やして行き、
巨木の麓に群を生した草花がパタパタと声を上げて鳴き始めた。
その鳴き声すらも徐々に肥大していき、ついにはバタバタと忙しなく鳴くほどまでになると、
いつしか草花達は墨を垂らしたかのように黒く染まっていた。

泥。
雨ではない。降っているのは泥のようなものだった。
空は変わらず金色の光に包まれており、雨粒も辛うじて目視できる程に細かい。
ここだけ泥が降っているのだ。
泥はすぐに溜まってその嵩(かさ)を増し、降り積もった泥は見る間に泥の山へと姿を変えた。
草花の鳴き声は、いつしか泥が泥を叩く音に覆われ、それもまた次第に消えていくのだった。

つるりと泥の山から白い突起が小さく顔を出す。

それは鼻だった。小さく低い、人間の鼻だった。
その鼻が泥の山から顔を出すのを皮切りに、
積もった泥は溶け始め、中から白い肌が浮き出した。

泥は白い肌を洗い、黒い髪を舐め、宙を漂う襤褸(ぼろ)の布へと変化していく。
姿を現した少年の表情は陰鬱そのもので、その肌はひどく青白い。
まだ薄らと膜を張って流れる泥が、更にその色を悪く見せた。


— そこか


かの地の方へ向いた少年の、薄い唇が小さく震えた。

*　　　　　　　　　　*　　　　　　　　　　*




—水の湧くような音がした、ような気がした。


ごぽりと、空気の塊が鈍く弾けたような音が。
そんな筈はないのに、とハーヌは閉じていた目を開く。

水もとうに枯れて果ててしまった砂地で、ハーヌは仲間達と共に寝床に収まっていた。
枯れた砂地に草木は生えない。そのためここでは獣や虫の姿を見るのも稀である。
森での野営ならば、虫の声や風が木々を揺らす音でそれなりに賑やかなのだろうが、
この地の夜という時間には、そういったものが一切ない。
ただ唯一、自分達が焚いた焚火の火だけが、この静寂の世界に僅かな音をもたらしていた。

重い体を何とか起こして、ハーヌは焚火の傍へと寄る。
どうしたのかと仲間の一人に聞かれたが、これには何でもないとだけ答えた。

仲間が一度だけ小さく頷いたのを見て、ハーヌはテントの裏の方へと回り込んだ。
少し歩けば井戸がある。
名目こそ井戸ではあるが、水は既に枯れており、その存在の意味を為さなかったが、
ちょっとした散歩には手頃な距離にあった。

井戸を目視できる所まで歩いて、急にその足を止める。

—何かがいる。井戸の傍に。

その輪郭がはっきりしないのは時間帯のせいだけではないのだろう、
「それ」自身もまた闇に溶けるような色をしているのだと気付いた。

返事はない。

返事は、なかった。

それで今度はナイフを取り出し、井戸に向かって投げつけてみる。
ナイフは荒れた石肌に弾き返され、その場で弧を描いて地に落ちた。
その音から一拍置いて、ゆらりと闇が揺れる。白いものが空虚の中に浮かんだ。
それが人の顔だという事にハーヌが気が付いたのは、更に数拍おいてからだった。

はっとする。

子供の傍へ駆け寄って、ようやく少年の(—彼は男だった)表情を識別するまでに至る。
いやに表情の暗い子供だ、とハーヌは心の中で思った。
青白い肌の少年はただひたすらハーヌの顔を凝視しており、
その眼はわずかに見開かれているようだった。

「また」と言うが、
ハーヌにはこの少年と会った覚えがなかった。

少年が僅かに視線をずらす。
くぐもった声だったというのに、不思議とその言葉ははっきりと認識する事が出来た。

そこまで言って声を掛けられた。