水は良い。




水に浸ると、自らの体力が回復していくのが分かる。
体だけではなく、その精神も。


それは自分が、水妖の血を多少なりともひいているから…だけではない。


体全体にかかる心地よい水圧と、重力から多少解放されるこの状態は、
絡まった思考の紐ゆっくりとほどいていき、取り除いてくれるようだ。
















　雇い主の用意した晩酌を交わした後、地平線の向こうが白々と暁けるころに、ふと目が覚めて水に入る。

出発を察知したからかもしれない。
もしくは鬱陶しく耳にかかるような、
不快感を拭いたかったというのもあるだろう。

流れる水に体を撫でられながら、顔をあげ両手で耳の上から背後へ髪をかきあげると
その際に、右目上部の額にある傷に、指がふれる。

















自分の体に刻まれた傷は、一つとして意味の無いものはない。


この体に刻まれた全ての傷は、誰かの力強い「言葉」であり
その一つ一つが、白波の斬慈という男を作り出している。

気づけば自らの指が、思い出を辿るように、傷を撫でていた。






　　　　　

いつもは手ぬぐいで隠しているその眉に刻まれた傷は、ある男との繋がりの証





それは、
かつて自らが辿ってきた、羨望と、尊敬と、そして
その男の剣を折り、我前に地に伏せてやりたい勝利への渇望と闘争の証




赤い髪、赤い目の大男。
雲ひとつ無い晴天のような、清清しくも、荒々しい風。


二組の太刀が背負われた大きな背中は、追えども追えどもわが指には届かず
鍛錬棒を振れども振れども、その腕を捕まえることは出来なかった。



そして、拾年の月日、いや、自分自身を懸けた仕合に、負けた。
俺が見ていた勝利の、その先にその男はいた。

俺は知っている。

あの男が、友と呼びながらも、俺の手の届かぬ遥か遠い高みにいることを。
そして今もなお、前に進み続けていることを。

右肩口にある、大きな鉤爪でえぐられたような傷は、ある女との繋がりの証





それは、
かつて自らが辿ってきた、出会いと、安寧と、情欲と、葛藤、
そして、その女の頬を撫で、我腕で地に伏せ両腕で抱きしめ、
お互いという存在を心身の奥に刻んだ、情愛の証



明るく柔らかい長い髪と、緑の目に眼鏡をかけた小柄な女。
飯がうまくて、世話焼きで、ちょこまかとして、小うるさくて、よく泣いて、
そのくせ芯は頑固で、金に目がなくて…。

全く自分の好みではなかった女。




白い波が、砂浜に浅く積もった白雪へ、打ち寄せては消える。


雪は、ゆっくりと解けて砂に染み込み、波は、一瞬にして消えゆくものだ。

白波は絶えず打ち寄せ消え、そのたびに砂を運び、引き戻す。


巻き上げては波に絡めとり、雪は砂を浴び、
泥のような霙にになって消えてしまうのではないか。


そうして季節は拾度過ぎた。







体に刻まれた二つの傷は、白波が、
自分のありかたを、迷い探し続けてきた証。

ハッと我にかえると、腕を組んだ“飼い主”が、小川の岸の上でこちらを見ている。

あっさりと気配を取られてしまったことに、違和感を感じながらも、
手は反射的に沈ませておいた白波を拾い上げて、鯉口から一寸程度は抜刀していたことに安心する。

取り繕ったのは、気づかれなかったであろうか。

口元にたれる水滴を片手首で拭いながら、
暁の空に深い色を落とす、鬱蒼とした森のシルエットに目を細めた。

　

ふと彼の視線の行く先をたどった。
己の包帯、軽く汚れた其れに眺め入っている事に気づくなり
ひらと右手を軽く振った。一瞥される事すら嫌がるようにだ。