僕は、死体だ。
　死体になった僕は首だけになって、何かを見つめている。
　何かは妖艶に微笑み、僕の目玉を掻き回した。

　——ぷちゅ。ぐちゅん。
　目元から噴き出した液体は赤黒かったが、大気に触れるとたちまち緑色に変化した。

　逃げなくちゃ。でも、首だけだから逃げられない。首だけじゃ、何も出来ない。
　僕の目玉を抉っていた何かは、僕の額に唇を落とし、そして、首ごと爪で引き裂いた。



「……ぁ」
　重い瞼を開くと、そこには星空が広がっていた。
　寝袋がぐっしょりと湿っている。どうやら、酷く汗をかいているようだった。
「夢、だよな……？」
　何だか解らないが、気持ちの悪い夢だった。
　僕はゆっくりと体を起こすと、タオルを取り出し汗を拭う。涼しげに吹き抜ける風が冷たく、心地良い。
「……喉、乾いたな」
　タオルを丁寧に畳んで、僕は一人川辺に向かった。

　　†

「今夜は、三日月か」
　掌を包むように、ひんやりとした水が流れていく。
　手で椀を作ると、水面にはぼんやりと、揺らめくような月が浮かんだ。
「綺麗な月だ」
　口元に運び、月光を飲み込む。澄んだ水の味が口の中に広がり、「このまま溺れてみるのも悪くないか」なんて、馬鹿な事を考えてしまう。
「……でも、考えるだけで済むんだよな」
　当然ながら、本気で溺れようだなんて思わないし思えない。
　目の前で滔々と流れる川に、再び手を伸ばす。腕をまくり、ゆっくりと——突っ込む。
「やっぱり何とも無い、よなぁ」

　——吸血鬼は、流れる水が苦手である。
　多々有る吸血鬼の弱点の一つ。流水を遮っている右腕が、そんな弱点の存在を否定していた。
　僕は本当は、吸血鬼ではないのではないか？　そもそも、こんなに弱い僕が吸血鬼などという存在のはずがない。
「でも、ネロさんやレーネさんも吸血鬼だけど……」
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ふ 　た　 り
　平然とした様子で、バカンス中の兵士を一蹴した“上司と貴族”の様子が思い起こされる。とてもじゃないが、彼女達が本調子でなかったとは考え難い。
　となると、吸血鬼の流水弱点説はあくまで迷信なのだろうか？



　先日脳裏に響いた、そんな言葉が否応無しに浮かんでくる。
「っ、頭痛が」
　まただ。
　この声を聞く度、思い出す度にこのような感覚に陥る。
「——……忘れよう。吸血鬼の事は、その内ネロさんにでも聞くとして」
　僕はぱしゃりと顔を洗う。水面には、紅と金の光が映っている事に、気が付いた。

　　　†

「あれは——？」
　薄暗い闇夜の中、月明りは二人の少女を照らしていた。紅い少女と、金の少女。

　——紅の少女は、燃え立つ灯篭のように。
　聞く者を打ち震えさせるような、高音の唄を奏でながら、円を描くように踊っている。

　——金の少女は、誘い光る宝石のように。
　聞く者を蠱惑するような、低音の唄を奏でながら、円を描くように踊っている。


　　セント・エルモス・ファイア
「旅往く者を導く光——、か」

　思わず、そんな言葉が漏れ出る。彼女達の踊りは余りにも神々しく。僕には少し、眩し過ぎると思った。
「……聖なる、焔」
　ぼそり、と。二人の精霊の唄を邪魔せぬように、小さな声で呟く男が一人居る事に気が付く。
「……あ」
　僕はその男に見覚えが有る。この世界でも数少ない知り合い——絶対的な王、風斬東。
　そう思うと、直ぐに合点がいった。眼前の美しき唄は、踊りは、さしずめ王に披露する舞曲とでも言った所であるのだろう。彼ならば、この眩い舞踏であっても目を瞑るような事はしないだろう。
「——お休みなさい」
　幸いにも、向こうは僕の事に気が付いていないらしかった。
　僕は、この場所に似つかわしくない。この舞曲の観客は王である彼と——煌々と輝く、この月だけで良い。
　
　そう考えゆっくりと、その場から、立ち去った。