就寝予定時間はとうに過ぎていた。エンブリオたちは皆眠っていたし、テントの外に出てみても、聞こえてくるのは小川が流れる音だけだ。グレイおじさんに関しては眠っているのかどうかはわからないけれど、物音を立てることはなかった。
　昨日見た夢のことを思い出す。人は夢から逃れるために現実へと目を覚ます。ということを聞いたことがあった。現に私はあの夢を見るのが怖くて眠りから逃げているのかもしれない。
　景色を見てみる。昨日よりも進んだ場所でも周囲の様子はあまり変わりなかった。見ていて飽きるものではないけれど気分転換にもならない。
　あの夢は今の私が唯一見る悪夢だった。
　今の、というと少し語弊がある。あの夢は記憶のある一地点を蘇らせるもので、その出来事があるまではいろんな悪い夢を見た。何かに襲われる夢、逃げ続ける夢、ひたすら落ちる夢。
　だけれどあの出来事を体験した後はあれだけが悪夢として私の前に出現する。それだけ大きいショックを私の中に残したのだと思う。
　思い出したくもない思い出、それでも眠れぬ夜は何故かそういうものを思い出させる。
　小川の流れる音に合わせて鈴蘭がお辞儀をしたように見えた。光を伴う景色の中に思い出が立ち上ってきたのを私は静かに眺めていた。
　
　
　
　世界との決定的な不和を自覚したのは初等教育が半分を過ぎた頃の事だった。
「大人のいうことが聞けないのか！」
　激しい叱責と頭頂部に鈍い痛みを感じたのはほぼ同時。この言葉と殴られることはいつもセットだと冷静に分析しながら、私は不快感を顔に出さないようにコントロールする。
　殴られた原因はわかっている、それを防ぐことも簡単だと知っている。ただ私の口はぴかぴかにワックスをかけた廊下のように滑るのだ。
　多分原因をわかっていてもそれに納得していないからだとおもう。とはいえとりあえずは反省の色を見せなければならない。父はそんな私を威圧的に見下したまま小言を吐いていた。
　生まれてから一度として自分が賢いと思ったことはない。ただ周りの人々がどうしようもないと感じたことはたくさんあった。
　特に大人に対しては。先ほど殴られたのは学校でのトラブルについて話したあと、教師の行動に不服を漏らしたからだった。その行動は私にとっては理不尽極まりないものだったのだ。
　私の話を聞いていたのかどうかはわからない。ただいつものように、先生はなんと言った？　と聞かれたのでそのままを答え、それならそうだ。と言われたことに反抗してしまったのだ。
　ちなみに学校でも教師に反抗し一撃をもらっている。
　こういうことが増えたのはここ最近だ。それまでは私があまり不平不満を言わない少女だったからかもしれない。時間が経てば忘れる都合のいい頭も持っていた。
　だけれど大人たちの一方的な態度と論理の欠片もない言葉に気がついてくると、どうしてもそれを受け入れることは出来なくなっていた。
　それでも出来る限り私は殴られることの無いように気を配っていた。感情を表に出さないようにし、出来る限り問題を起こさないようにした。それを通して自分を抑制することの難しさを知って、周囲の少年少女がどれだけ苦労しているのかと想像を巡らせた。
　だが彼ら彼女らは教師に逆らうことが殆ど無かった。
　私からすれば信じがたい事が抵抗なく受け入れられ、誰もがそれに賛同しているようだった。
　いくら自分を抑えこんでも、その域に達せられることはなくて、私はようやく世界を流れるルールに自分は順応できないのだと気付かされた。
　今から考えなおすとそういうさばさばした表現になるが、その頃の私は体調を崩し、学校へ行くのは苦行ともいえる状態だった。人の目がないところで嘔吐することも二度や三度ではすまなかった。
　何故私はこうなってしまったのかと泣き続けることもあった、皆と同じように生きてきたはずなのに何故。
　そういう小さな爆発を、人の目が届かないところに逃げこみながら行い、私はどうにか初等教育を終えた。
　それから先の進路を決める時、郊外にある道場で農業と剣術を教えている人がいると聞き、そちらへ住み込みで出て行くことにした。
　体を動かすことはそれなりに好きだったし、何よりあまり人とかかわらずにすみそうだったので私は逃げるようにしてそれを決めた。
　両親とわかれるのが寂しくなかったわけではない、不満はあっても家族なのだから。それでもこのままでいれば私は本当におかしくなってしまいそうだった。別れの日には二人に感謝を告げた。それぐらいは何とか出来た。
　新しいことが始まる期待は、不安に塗りつぶされたようで、目の届くところには現れない。
　無理やり眠ろうとして目をつむる。車両に揺られながら意識は水面のこちらとむこうを行ったり来たりした。何度目かの潜行で夢を見た。
　一言で言えば幸せな夢だった。皆が大人も子供も区別なく笑い、冗談を言い合って、また笑った。
　……夢は記憶から見るともいう。じゃあこれは誰の記憶なのだろう。
　目的地につくと事前に知らされていた案内人を探す。果たしてそれはすぐ見つかった。なにせそこにはその人と私しかいなかったからだ。
　出迎えてくれたのは長い黒髪を持った若々しい細身の女性で、視線は柔らかく、よく通る声に好感が持てた。ただ大人であることに変わりはなく、私は心中の警戒をとけないまま、道場の中へと案内された。
　彼女が農業も剣術も教える人なのだと知ったのは次の日になってからだった。
　そして彼女が私にとって本当に特別な人間で、運命をかえる存在なのだと知るのはそれからまた少し先の話だ。




　興奮している兵士から十分に距離をとってフィーナは小さくつぶやく

　エンブリオ達は皆一斉に首を横に振った。正直でよろしいと笑いつつ彼女は竹光を構える。

　先日の演舞が無駄にならなかった。足裏で感覚を合わせて大きく息をつく。

　大げさに叫びながら、小声で、呼んだ時はよろしくと声をかけ、地面を蹴る。
　間合いに入るまでは三秒。
　1。
　苔を踏むサクリとした感覚。
　2。
　両手に力を込める。
　3。同時に竹光を振るった。
　彼女から一方的に届く距離の攻撃を兵士は屈んでかわす、返す刃で牽制すると一歩飛び退いて間合いが広がる。

　これまで攻城戦で出会った中では一番良い反応だった。どうやらただの露出狂ではないらしい。
　二度三度と切っ先を振る、誘いに乗ってこない兵士にフィーナが仕掛ける。
　一歩踏み込みながら横薙ぎに一撃、だがそれをかわされ、刃を戻す前に踏み込まれる。
　心のなかで毒づきながらバックステップ、追うような横薙ぎをしのぐが攻撃は止まず、じりじりと後退させられる。
　間合いを離すタイミングが無い。リーチでは勝るがそれを活かせない位置だ。
　再度後ろに飛ぶも開いた距離を瞬時に詰められ防御を強いられる、合間を縫って突かれた刃物が顔をかすめた。
　防御はあまり得意じゃないがそれを差し引いても厄介な攻撃だった。無理矢理に突き放して距離をとるが、突破口は見えない。
　フィーナは左手でさり気なく腰のあたりを探る、何かを思案するようにして数秒。首を横に振ると大きく叫ぶ。

　それは力を貸して欲しいという符号で、彼女の雰囲気がそれまでとは別物に変化した。
　相手もそれを感じ取ったのか警戒の色が強くなったのがわかる、もう遅いと彼女は心の中で笑う。
　兵士の視界から彼女の姿が消える。ここまでとは段違いの加速で踏み込んだだけだったが、目では追い切れない。
　剣閃。光の帯を伴ったそれを驚愕に顔を歪めながらも、兵士はさばいた。空を切った軌跡だけが目に残る。過ぎ去った竹光を握るのは右手だけだ。
　半身になった体勢から彼女は腰に手をやり、木剣と呼ぶにはお粗末な武器を取り出す、大きさはナイフ程度で刀身が真っ赤に彩られていた。
　流れるように突きは兵士の胸板をとらえ、押しこむように衝撃が伝わる。肉を断つまでは行かないが流し込まれた赤い力が彼の動きを止める。
　彼女は十分に狙いをつけて、輝く竹光を袈裟懸けに振り下ろした。
　
　
　

　戦闘が終わり、エンブリオ達はリラックスした様子で休憩していた。だが、一人だけ顔色がすぐれない。

　彼女は二人を交互に見つめたあと、声を小さく落として言った。

　シェイミーは二度うなずき、サーリャも記憶を探って確かに。と漏らした。

　落ち込んでいる人魚ちゃんを見て、二人はそれでもなかなか難しい話だなと同時に思う。そうしてどう言おうか考えていたら、近くをグレイが通りかかった。

　話を聞くとグレイは顎をこすり、なるほどねぇとつぶやいた。そのまま少し思案しているようだったが、思いついた事があるようで口を開く。

　去っていった人魚ちゃんの後ろ姿を三人で見送る。

　グレイはそれに苦笑を返す、その後しばらくして、疲れた様子の人魚ちゃんが帰ってきた。
　説得する相手はどれくらい？ 説得した相手と当たる確率はどれくらい？　そもそも説得って成功するの？
　進行方向からヘイらっしゃい！！　とうるさい声が聞こえる、今日のあいてはレモラが二匹。




　僕は知らず拳を握りしめていた。それに気づいて、あぁこれがそういうことなのかと納得する。
　考えていなかったわけではない、メルンテーゼのことを調べた際にもしかしたらと。しかし事は思っていたよりもずいぶん早いようだった。
　僕に残された時間を決めるのは彼女の役割になるだろう、無自覚でだけれど。
　大きな失敗を思い出す、用意は周到にするべきだ。
　伝えるべき情報を確実に伝えるために、僕は頭のなかを整理する。一つ一つの情報と向き合って重要度のタグをつけていく、彼女が本当に知らなくちゃいけないことを客観的に判断する。
　次にとりかかる順番を考えていった。重要度が高いものほど早いというわけじゃない、最終的に伝えきれずに終わっても、その情報までを間違わず伝えられることが重要だった。
　ペンをとる。最初に書きだすのは身近な嘘のお話。
　悪夢をしょっちゅう見ると言った。確かに夢をみるとそのほとんどが悪夢だった。
　だけれど彼女のように夢を見たくないほどの悪夢ではない。僕は今見えているものから逃げるために、夢を見ようとするのだ。

クィンの影に潜んだまま、出てこない。

〜練習試合後〜