エンブリオの気配が満ちている。空気に、地に、恐らくは海にも。見たことのない、このメルンテーゼの遠い海にも。生まれ、増え、そして元素として満ち満ちるこの世界に。あの庭に、そこで暮らしていた僅かな時には1体のエンブリオ、ディオールとの契約だけで成り立っていた彼女の体の中には今は二体のエンブリオが。彼女の真白き骨を褥に静かな眠り、仮初の死と共にあり、僅かに明滅を繰り返している。

タカージュドールに居た頃は、どんなエンブリオも必要なかった。あの庭園で暮らしていた頃には、一体の身代り人形だけで良かった。現状を押し留めるだけの現実を良いとするのであれば。そして歩みを進め、エンブリオをもう一体宿した。歩むたびに、未来へ進むたびに。この一揆に参加することで、己の身体は急に未来へと進み始めている。それが、奪われたネクターに関係しているのかはわからない。ただ、このままネクターがなくなれば彼女は死ぬだろう。死ぬ。死ぬだけならいいのだ。例えば、このままオルガに眉間を打ち抜かれ、そのまま永久に溶けない氷の中に閉じ込められるのであれば。（いや……）暴走をはじめたトリカゴウイルスが、宿主が死んだ後に滅ぶ保障などどこにある？　そうであれば、わたしは？

果たしてエンブリオの契約はいつまで続くのだろう？　または、歩みの度にどれだけのエンブリオを宿していくのだろう。その現実に少し笑ってしまう。宿す？　あの日、ドールに捧げたものを思い出す。なんて滑稽なのだろう。地に生まれることも、増えることも、満ちることもないエンブリオたち。宿主を籠として囚われ、そこで墜落するだけの旅路に繋がれただけの。
それでも彼女は、再びのエンブリオを宿していく。花を散らし、血を捧げ、骨に繋いでやり、その力でディオールを生かし、また次の一歩を征く。城へ向けて。命の花の為に。

それは強さか。強さをかたちづくるものは美しさなのか。それとも、それとも命の強さが美を作るのか。後者を肯定することは彼女には出来ない。彼女は美しくあることからはじまり、それこそが彼女の命を繋いでいる。（ただ？）ただ。己の美は、エンブリオによって生かされる美は、どこに紐付き、何を生み出していくのだろうか？　果たして、エンブリオは、血の中で眠るばかりの死の気配は、彼女自身の命の強さか。

タカージュドールの風景を思い出す。美しく、穏やかで、輝いていた世界。女たちはみな美しく、この世の春を謳歌し、また愛でられ、世界に歓迎され、世界を愛し、恐れることなど何もないとそううたう世界に。１日が過ぎる程に怯えることなど。指先を彩った幾つもの紅玉、碧玉、真珠……。

風の向きは今日も変わらない。ただ分水嶺は指を伸ばしたそのすぐ、硝子一枚向こうに在るのだろう。磨り硝子越しに未来を視る様な、そのような感覚に胸が痛くなる。いつだって未来は近すぎるおそれに満ちている。ただ。ただ、そのすべてが朧に見える磨り硝子の果てにあるものは、恐らくは希望とひとびとは呼ぶ、若い女の夢見るその華やかさに満ちているような気持にもなっている自分を見つけ、小さな苦笑が口の端に浮かぶ。

倒れる獣の指先には、今日も小鳥が止まる。また彼女を、呼ぶ声がしている。それが生に属するものか、死に属するものなのかは彼女にはわからない。見上げた小鳥は、翅もつエンブリオだった。

広い庭園の中、オルガの背中を熱っぽく見送っていたルルゥロの視界にもう一人、その目を奪う人影を見つけた。

見えなくなるまでその背を見送り、慌てて仲間の元へ走って行った。