蜃気楼の中に

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　一般的な馬車の旅路というものは、平時見た目よりも宜しくない物だ。

　馬車は酷く揺れる。
　優れた馬に引かせようと、素晴らしい車体を整えようと、揺れるものは揺れるのだ。

　そんな中にあって、紳士淑女たるもの、常に同じ体勢で座り続けなければいけない。
　車輪が空を飛ぶような道であれ、蛇のように曲がりくねった道であれ関係ない。
　ただひたすらに苦痛を堪え忍ばねばならない。
　そうして三日三晩も揺られれば、あらぬところが痣だらけになる。
　なにせ、馬車の中で殴られ続けているようなものだ。あまり心地の良いものではない。

　加えて、人狼を恐れぬ馬は少ない。
　数少ない例外も、馬車馬には向かぬ軍馬が殆どだ。
　馬を購入して馬車を引かせるよりも、狼と化して走るか、馬無し馬車——蒸気駆動車を整備する方が安くつく。
　更には夫、ロルのアルファは屈指の“機械好き”で鳴らしているという悪条件まで付いてきた。
　彼自身はえらく鼻の利く人狼だというのに、蒸気機関の黒煙すら気にならないというレベルの傾倒ぶり。

　そこまでくると、馬車には殆ど乗る機会に恵まれない。
　市場に出回る蒸気駆動車は、戦車から単車まですべからく試乗しているというのに、
　二頭引き四輪馬車はおろか、一頭引き二輪馬車に乗った事すら殆ど無い。
　多分、自分で御す事も出来ないだろう。

　故に、ミスター・アーロンの御す馬車に乗れるのは「嬉しい」の一言に尽きる。

　ヴォルフスムーンには彼ほどの御者は居ないし、彼の馬ほど良い馬車馬も居ないだろう。
　どういう訳か、彼の馬車は“馬車故の難点”を上手く克服している。
　悪路で空を飛ぶことはないし、ぬかるみに嵌って動けなくなるようなこともない。
　苦痛を覚えぬ馬車の旅は最高だ。

　とはいえ、それでも人は疲弊するし、それ以上に馬も疲れる。
　疲弊しきった馬は、転倒によって足を折り——その場で始末する事にもなりかねない。
　馬車の旅路は休憩が不可欠なのだ。

　馬を使い潰すことは、守護者が許してもアーロンは許さないだろう。







　さんさんと降り注ぐ日差しの中。
　日傘を指先でもてあそびながら、奇岩の下で地図を広げている。

　枯れた土地への道中、本日何度目かの休憩時間だ。
　アーロンは馬の面倒を見るのに忙しい。
　カーライルにエミリーといえば、枯れた土地に遺跡群（もしくは鉱脈）が無いか下調べ中らしい。
　わたくしは一人、邪魔にならぬように休んでいるところだ。

　地図によれば、もう1時間も走らずに“枯れた土地”へ到着するらしい。

　おそらく間違いはないだろう。
　現地人であるアーロンと、プロフェッサー・カーライル仕込みの読図術だ。
　今度は上下を間違えていないし、現在地だって教えて貰っている。

　満足しきり、畳もうとした紙面にうっすらと影がさす。

「レディ・ロル。お一人での行動は慎まれるようお願い申し上げます」
「慇懃無礼にも聞こえるわよ、ヒューバート。以前と同じようにお願い」

　影の主はヒューバート。
　昨日、ノームを継承して呼び戻した人狼。意図したとおり鏡像双生児の兄の方。

　彼は黙って私を見下している。
　顔には表れないものの、目には怒りの炎が渦を巻いている。
　おそらくは彼自身、怒りに駆られているとは気付いていないだろう。
　実に厄介だ。最大限に“鬱陶しい”という思いを込めて彼を見上げる。

「何か用かしら。私は呼んでないけれど」

　裏を返せば「勝手に出てくるな」と告げたつもりだ。
　しかし、ヒューバートは聞き流す事にしたらしい。詫びる様子は全く無い。
　代わりに、彼は首に掛けた革紐を外した。
　彼の遺品——金製の指輪印——を突きつけると、怒ったような調子でわたくしに尋ねる。

「何故、こっちがおれだと判ったんだい」

　先ほどとは打って変わって、軽い北部地域訛りのままであった。
　“北部出身の人狼”が彼の本性であって、最初の“南部の慇懃無礼な紳士”は仮面の一つに過ぎない。
　密偵という兵科柄、彼はあらゆる人間に化ける事が出来る。

　彼の指輪印は揺れる。
　彼が意図したとおりに事が運んだ場合、選ばれるはずがなかった方の指輪。

　答えを望まれようと、私はアルファだ。
　アルファは基本的に尋問とそれに類する物は受けるべきではないらしい。
　己のパックの人狼に脅された際は、尚更拒絶すべきだとも聞いている。

「貴婦人の勘よ」
「レディ、おれは冗談が嫌いなんだけどね」

　眉がぴくりと動く。
　ヒューバートの親指は、指輪印の内側に彫り込まれた“所有者の名前”を隠すように添えられた。
　酷く力を込めているのだろう。血の通わぬ肌は白くなっている。

「最初から判っていたのかい」
「どうかしらね。貴方ならやりかねない事をやってみただけよ」
「誰か、他に知っている奴は居るのか」
「私だけよ。恨んでいる？」

　ふっと、彼の堅苦しい表情が和らいだ。
　彼が心の内で思っている事は手に取るように判る。
　——いいや、おれの方が先で良かった。あいつの為の実験台になれるなら本望だ。　

　そして、事実その通りなのだろう。
　はにかむような笑顔を一瞬だけ浮かべてみせる。

「貴方に敵意は抱いていないよ。むしろ感謝してる。おれの——…いや」

　彼は私の手を掴む。
　おぼれている子供が一本のわらにも縋るように、両手でしっかりと包み込む。
　その手の感覚に違和感を覚えるのは早かった。

「ヒューバート、貴方……？」

　そこに彼の指はある。
　手の平も。力強く握りしめる感覚も感じられる。

　ただ、人肌の感触はない。
　体温も、鼓動も、何もない。
　いくら力を込めても、指を進めることすら叶わない。
　見えない壁が存在しているような感覚。

「エンブリオの身体というのは、あまり気分の良いものではないらしいね」

　長い時を生き、数多くの死地に生きた人狼特有の暗い瞳。
　目の前の青年は同じ瞳で私を見る。

「自分では判らないんだ。目で見える範囲の差異以外は、何も感じられなくて」

　メルンテーゼの住民は語る。
　ネクターを捧げられるほどエンブリオは強くなる、と。
　特に多くのネクターを得たエンブリオは、完璧な肉体を得て活動することも可能になるらしい。
　エンブリオの存在はネクターに依存し、力の行使は生命力に依存する。

　ヒューバートの像は揺れる。
　水面に映る彼の姿を、水滴の波紋が揺らしているかのよう。
　彼の素体となっているエンブリオは、僅かなネクターしか受け取っていないノーム。
　故に、彼の再現率は低いのだろう。レイフと比べれば圧倒的に。

　そして、今にも像は崩れ果ててしまいそうだ。
　弱いエンブリオは生命力の燃費が悪いのか、長くこの世に留まれない。

「レディ・ロル。どうかお気を付けて」
「何のことかしら」
「探索地を移すんだよね」
「よく知ってるわね」
「オメガの仕事だよ。パックの事は誰よりも知らなければならない」

　窘めるような声音。
　しかし、わたくしが怖がる素振りすら見せないと判ると、呆れたと言わんばかりに肩をすぼめた。

「おれ達は余程のことがない限り砂漠の行軍は避ける。
　砂漠に住まう獣達は、己の腕力よりも毒に頼って狩りをするからね」
「ご忠告ありがとう。心にと留めておくわ」

　きっと、枯れた土地の風景は斯様な風なのだろう。
　そう思わせてくれるほど、酷く味気ない笑顔が——凶相が、目の前に炸裂する。
　わたくしの手を包み、耳にぐいと顔を寄せて呻くように呟く。

「本当なら、あなたを殴り付けてでも止めたいんだ。
　判るかい。全て死に絶えた今となってはあなただけが頼りなんだ。失うわけにはいかない」

　遠くで声が聞こえる。
　隊長を気取っているらしい、プロフェッサー・カーライルが出発を告げている。

　僅かな舌打ち。
　刹那、覚めてしまった夢のように彼の姿は消え失せた。
　革紐にくくりつけられた指輪印だけ、革手袋の上に転がっている。

「大丈夫、わたくしもそう思っているわ」

　青々とした草木を撫でる風は、むっとした熱気を孕んでいる。
　日傘をたためば、チリチリと肌を焼く日光が痛い。

　枯れた土地はすぐそこにまで迫っていた。

——通行の邪魔をする兵士を撃退した一向は、幌馬車内で今後の動きについて相談している。

恐らく新王パラダイスの配下であろう兵士たちを手榴弾で蹴散らした後、エミリーは何やら上機嫌でタブレットを弄っている。
どうやら新しくダウンロードしたブラウザゲーム『農これ』にお熱なようだった。お気に入りの萌え農奴で農作業チームを作り畑を耕すゲームらしい。

タブレットを置いて顔を上げると、横にいる老婦人と先頭で御している青年へと声を掛けてみる。

しばらくの間、きょとんとした顔で言い争いを眺めていた。
ようやく“部隊名”で言い争っていることに気付くと、出身世界の“ルール”を元に私見を述べる。

考古学者と社長夫人とを交互に見ると、口に手を当てくるりと笑った。

やんわりと窘める傍ら、顔を仰ぐよう様に手の平を上下させる。

ふと、幌馬車の後部より外の景色を見つめる。
のんびりとした広庭の風景は消え去り、熱砂に焼けた荒れ野が広がっている。

パーティ内で水に類するエンブリオを従えているのは考古学者ただ一人。
どこか請うような視線で、ちらりと考古学者を一瞥する。

ぐっと力拳を握れば、“隊長？”の問いかけに鼓舞するように応えて振り返る。

少女の問いにあまり希望はないようだが、それでも何か考えた方がいいと思っているのか
うんうんと首を捻っては、馬に対しても“なんかないか？”と尋ねたりしている。

握る手綱が主を結ぶのは、何らかの力のやりとりでもあるのか、
エンブリオを宿した馬は嘶くこともなく、一行を砂地の荒野へと運んでゆく。

煙草を咥えながら、男はどこで調達したのかメルンテーゼの民間伝承の本を読んでいたが……
老婦人に話しかけられると本を閉じて快く応じる。

老婦人の持つ野草を見てしばらく考えていたが、やがてニカッと笑って、

男は鼻歌を歌いながら慣れた手つきで料理を始めた——

鼻を擽る微香を、父親譲りの嗅覚は“そう”捉えたらしく、
ふわりと軽い荷物に目を瞬かせながら荷台に積み終えれば………

澄んだ瞳をした馬は老貴婦人に視線を向ければ、
柔らかいつむじ風を起こして、自らの鬣と尾をなびかせて見せた！

悪びれた、というよりは照れた様子で両手を合わせて詫びている！

完全に目の前を遮るモノたちを無視してエミリーはししょーに食いついている。
どうやらよほど自分が決めた名前のほうがいいらしい。

そして指を指した先はラクダや狼の群れ。無視はしていなかったようだが完全に八つ当たりである！

老貴婦人は獣の群れへと視線を投げる。
先頭で唸る狼を見るや、悲しみを湛えた瞳を強く投げかけた。