肺全体を洗い流す呼吸の波から這い出るように、声が漏れ出す。

幾ら深く息を重ねようとも、体躯を支える芯とは為らず。
もはや呼吸の精妙さなど考えようも無い。
肺の奥底へと押し込まれた吸気は粉砕され、口腔と鼻腔から溢れ出るのみ。

果て無く重さを増す躯幹を運ぶため、両の脚は地を舐める様に前へ前へと。
身体中を巡る疲労は熱となって吹き出し、滝のような汗が流れ出る。

熱気に茹る瞳の遥か先を、花冠は悠然と歩き続けていた。

歩みを止めて振り返るその姿に、息の乱れた様子は無い。

僅か数刻の前まで、先を歩いているのは我であった。

起伏さえほとんど見られぬ、なだらかな平原。
力の衰えし身なれども、危難を感じるはずもなし。

在りしのまま、只管に先を急ぎ。

その道半ば突如として、この身は異常を伴う事となった。

花冠の元へと追い付き、大きく呼吸を繰り返す。
心肺を整えようと腰を折るその姿は、大層惨めなモノと映っていただろうか。

息の上がる感覚など、久しく忘れていたものだ。

否。
そも疲労など生まれてこの方、感じたことは無かった。
己が身も息を乱すことを知らされたるは、ただの一度のみ。

——彼の日を措いて、他に無い。

半ば試すつもりであったが、その顔は平時と然程の変わりも無い。
呼吸も表情も、心拍すらも変化を感じ得ない。

何ら躊躇うことなく荷を肩に担ぐと、平然として歩み始めた。


*　*　*


幾らか歩調は緩んでいる。
緩慢な足取りを追う内に、次第に息も整いつつある。

花冠との間も離されることなく、その後ろに付いて歩き続ける。

と、その時。
風の向こうに、せせらぎが聞こえて来た。

花冠に任せては、見向きもせずに通り過ぎて行くことに成りかねぬ。
好機を前にしてすら、その性情は変わることの無い男だ。
返事を聞くこと無く水の鳴る方へと足を向け、下って行く。

ポツリ、それのみ呟くと花冠も歩みを変え、後を付いて歩いた。

*

久方振りに目にする水の流れは、果たして冷厳そのものであった。
幸いなことに、周囲に猛々しい気配は無い。
仮に感知し得ぬ気配があれども、花冠が気付かぬはずもない。

水面は澄み渡り、水中には小魚が忙しく泳ぎ回っている。
水流は穏やかに、水質に毒性も見受けられず。
今この場に措いて、この水辺は限りなく安全であることが感じられた。

最早躊躇う理由も無し。
荷を置き、衣服を解いて畳み置くと、己が身を川中へと投じた。
ひどく冷たい。

水を浴びることは、生来の我が嗜好の一つとなっている。
冷えた流水の刺激は己が身を引き締め、悪来の全てを洗い流すように感じられた。

先程の汗も疲労も熱気も全て、肌表より溶け出し、水底へと沈んで行くのだ。

膠も無く。
花冠は未だ、川岸に留まり、手を浸すのみ。

共に無防備に為ることを警戒してか、川そのものに興味を持たぬか。
一瞥も寄越す事無く水を弄ぶ顔からは、相変わらず何も読み取れず。

或いは、我と場を同じくするを、厭わしくしているのかも知れぬ。
何処か、必要以上の接近を避けるのも、変わらずと言った所か。
ならば構うこと無く、己の身を洗い清めることに専心するのみ。

一通りの清めを終え、再び花冠の顔を見遣る。

岸辺へと這い上がり、水気を落とす。
花冠は未だ、指先で水面と戯れ続けている。
思えば、このように糧にも為らぬ所作を行うことは、之までには無かったことだ。

だが、変じたことなど、それだけのモノに過ぎぬ。

目の当りにしてすら、花冠の変調は未だ信じ切れぬモノであった。
その有様は嘗ての日のまま、動じず騒がず。
力が衰えたとしても、補い生きる術を持ち得ている。
呪いが失われぬのも、ヤツの内面の健在を示して居るように思われた。


対して、ただ只管に衰え行く儚き身は、此処に。

衣服を着直し、傍らに座る。
花冠もようやく観念したか、掬った水を鋭く振うと、外套を脱ぎ始めた。

露に為る肉体を、静かに眺める。


——やはり変わらぬ。


彼の日、治療を続けながらつぶさに観察し続けた。
すらりと伸びた、その白い体躯も。
均整の取れた肉付きも。
胸に穿たれた、不釣合いな程に、深く大きな傷痕も。

我らが出合って７日目より、我が我が物にせんとし続けたその肉体は。


何も変わっては居らぬ———


*　*

水から上がり、身支度を整えた花冠を迎える。
実に十分な休息となった。
よもや、同じ無様を晒すことは無い。

水を浴びて少しは無愛想も落ちるかと思えば、片方の目で答えるのみ。
言の葉で無く表情で示すのが此の男の遣り方だが、その真意を推し量るのは至難だ。

荷物を纏め上げ立ち上がると、花冠が近付いて来た。

先じて警告を発するのも、また珍しい。
だが、それだけことだ。

大袈裟ではない。
生きる術を、撓まぬ技を、花冠は持っている。

まずは、手にしなくては。
そうではなくては、埋まらぬモノがある。



花冠の後を付き、元の道を歩き出す。

その足取りは緩やかに。
同じ調子を以って、道を踏み鳴らし、渡って行った。

『失礼、するよ』
男があなたの前に現れる。見るからに優男と云った青年。ラフな服装で忽然と姿を現した彼は、皮肉げに笑みを浮かべてあなたの元へ。
彼の手には紫色の宝石が埋め込まれているようにピトリと張り付いている。
『不躾で申し訳ないけどね……キミは竜種かな。いや、……飽くまで種族的な意味でだが……私は竜が大好きでね。
　気配でなんとなく分かってしまうんだ。お嬢さんは何の種類の竜かな、あるいは龍で良いのか……ちょっと気になってね
　よければ教えてくれないかい、お嬢さん』

（城門前の広場にて）

きょろきょろとせわしなく周囲を見回しながら灰色の髪の少女が歩いてきた。

小首を傾げながらフィンの長身を見上げた。
指折り数えて、本当にいろんなのがいるみたい、呟きながら。

竜であると疑いなく断じて、そのくせ物怖じせずに彼女は話しかけてきた。

フィンヴェナハの語る言葉を黙って聞いている。
彼女が満足したと見るや、一つ息をついてから。

それに、とフィンヴェナハに向き直って。

そう言ってはみたものの、そんなものは本当は無い
でも、それを易々と見抜かれている様で、何か悔しい

そう言ってはみたものの、そんなものは本当は無い
でも、それを易々と見抜かれている様で、やはり悔しい