３
　
　（判読不能）の月、（判読不能）日　星屑を溶かしたような小川を歩く。

　ざぶん。軽い水音を立てて、人魚のかたちをしたエンブリオたちが去ってゆく。いつの間にかすっかり夜だ。星屑を散らしたように光の瞬く川の水は、先の戦闘をうけても淀むことなく涼やかに流れていた。
　水蛍の幼生でもいるのだろうか。不思議に思いその水をすくい上げると、石英のようにこまかな結晶が手袋に引っかかってきらきらと輝いた。仄かに燐光を放つその欠片はどうやら淡い魔法を孕んでいるようで、おそらくこれが川を彩る光の正体なのだろうと納得する。欠片を戻そうと水に手を差し入れると、もう一つ指に引っかかるものがあった。
　それはやはり淡く発光する、鱗のようなものだった。魚の鱗にしては大きいし、その脆そうな外見から爬虫類のものとも思えない。もしかして先ほどのエンブリオのものだろうか、そう考えながら月明かりに鱗を透かすと、光の加減により忙しなくその色が変わることに気がつく。それもまた川に放してやろうとして、ふと思い立って腰のポーチから空の硝子壜を取り出し、その中へたっぷりと輝く水を汲んだ。
　脆そうな鱗、それを壊さないようにそうっとつまんで、壜の中へ落とす。鱗がゆっくりと回転するようにゆらめきながら壜の底へ沈んでいくのを見届けて、コルクでしっかりと蓋をした。川と同じようにきらめく壜を、やはり壊さないようにそうっとハンカチで包んでからポーチへ戻した。あの壜は本当は錆落としの油を入れるためのもので、たまたま余っていた予備のそれを、僕は特に気にもとめず無造作にポーチにしまっていたのだった。それにただ水と鱗を入れただけだというのに、まるで宝物のように扱ってしまう自分の行動に自分で呆れて苦笑が浮かぶ。携帯用の小さく硝子の厚い壜だから、きっと少しくらいの衝撃では壊れたりしないだろう。

　ポーチの留め金をもとどおりに留めてしまってから振り向くと、セバスチャンがじっと僕のほうを見つめている。サイレントモードだろうかと首を傾げながら近づいて、その滑らかで硬い体をがしがしと撫ぜてやる。ちかりとレンズの奥で光が明滅して、坊チャマ、といつもの声が聞こえた。

「少し休んでいこうか。今のたたかいでおまえも攻撃を受けていたようだし、メンテナンスも要るだろう」
　そう言うとワア、と歓声が上がるので、やっぱり少しだけ、笑みがこぼれてしまう。

　注意深くカバーを外し、油圧式シリンダーについた埃を少しずつこそぎ落としていく。小さな歯車がほんの少しずれているのを見つけ、ピンセットでゆっくりとそれを正しい位置に戻した。ぼんやりと発光する鉱石でできている工具は、乏しいランプの明かりの中でも、手元の部品をくっきりと浮かび上がらせてくれる。緩んだ螺子を締め直し、油圧を測り、少ないようならば予備のものを足す。セバスチャンのメンテナンスなら手慣れたもので、見知った部品のひとつひとつに挨拶するように細やかな作業を続けてゆく。
　さてそろそろ仕上げかという時に、ふと違和感を感じて手を止めた。よく目を凝らしてみれば他の部品に埋もれるようにして、見慣れない部品がひとつ、取り付けられている。セバスチャンという機械を構成するパーツたちの中では心臓とも言える部分に程近い、重要なパーツたちにまぎれて唐突に設置されたその箱のような何か。前回——家を出る前に行ったメンテナンスではこんなものはなかったはずだ。
　ぐいと作業用ゴーグルを押し上げてその部品へ目を近付け、よく観察する。黒い——シンプルな外観をしている。立方体。綺麗な正方形だけで構成されたそれ。銘がないだろうかと目を凝らすが、それらしきものは見つからない。

「セバスチャン？」
　メンテナンス中でもセバスチャンのシステム自体は落とされていない。下手に動けば危ないので基本的に沈黙を守っているものの、話しかければ会話程度はできる筈だった。
「ハイ！　何デショウ、坊チャマ」
「ひとつ僕の知らないパーツがあるんだが、これはいつ付けた？」
「オ屋敷ヲ出発スル直前デスネ！」
　出発直前。確かにそれならば辻褄は合う。父にでもつけてもらったのだろうか。
「これ、どんなパーツだ？」
　軽い調子でそう問う。セバスチャンが自ら装着したものであれば悪いものであるはずがないし、機能が追加されたのならば僕もそれを知っておきたい。ただそれだけの理由で口にした質問は、しかし沈黙で返される。
　沈黙。チカリチカリとセバスチャンのレンズの奥で光が明滅している。沈黙。いつもあんなにやかましい彼が、僕が話しかければ即座に嬉しそうに返事をするセバスチャンが、なぜか今沈黙を守っている。ぞくりと背筋を這うものがあって思わず口を開いた。
「セバスチャ——……」
「私ノ動作ノ安定性ヲ高メ加エテぱふぉーまんすヲ向上サセルぱーつデス」
　無機質な音声が早口にそれだけを紡いだ。そうしてまた静かになる。僕はというと、そうか、と一言だけ返して、更に言葉を続けようとして、やめた。彼にだって秘密にしておきたいことのひとつやふたつ、あるだろう。僕だってすべてを彼に伝えているわけではない。

　無言のままにパーツを磨き上げ、元通りにカバーをかぶせて螺子を締めた。
「できたぞ」
「オオ、ナントイウ爽快感！　マルデ洗イタテノぱんつヲ履イタヨウナ気分デス！」
「お前はパンツ履いたことないだろ……」
「しゃったーちゃんす！　坊チャマノオ尻！」
「やめろ！」
　
　普段通り、そう、普段通りだ。予備のパーツや油を工具箱の中に並べて、ばたんと蓋を締めた。

40cmほどの大きさの人形がゆっくりと二足歩行で近づいてくる。

スカートの裾をつまみ一礼。

首を傾げた人形が急に宙へと持ち上げられる。
つまみ上げたのは、身長は170前後、青髪の耳長。

ガチャガチャと慌ただしく剣を抜き、表情に困惑を浮かべながら構える。よく考えればそもそも相手は男性であったし、王のしもべであるところの兵士であるならば下手に気を使う道理もない。
うん、うん、そうだ。深呼吸。気を取り直してきっと相手を見やり、口を開く。