C - 検閲 Censure
　ノタウィア・マニスの交易史を紐解くまでもなく、国々を行き交う書物の検査は古くから行われてきた。《帝国》によって焼失を余儀なくされたさる図書館には古今東西の巻子本が収められていたし、旅人によって齎されたそれらの書物が写本に値するか否かの記録まで細かに残されていたものだ。かつて《帝国》では神学に関する書籍のみ公刊前の審査 Revue が行われていた。大学によって齎される合否がある程度の影響力を誇っていたにせよ、当時の書物はまだ文字どおり「流通」していた。
　だがおよそ200年前に《出版統制局》なる不穏な名称の機関が設立されてからというもの、審査 Revue は検閲 Censure と名を変え、やがて鋭い赤鉛筆の牙を剥き始めた。はじめパルルマンの小さな一部局に過ぎなかった《出版統制局》は王権という肥やしを施されて急速に成長し、150年の後には出版流通に対する支配の網を《帝国》全土にすっかり敷き詰めてしまっていた。
　初期の《出版統制局》が発行した禁書目録 l'Index には、西大陸で大成した世界的な文献目録「大書誌 Magna Bibliotheca 」の記述法が用いられた。それによって旧時代の《帝国》が好んだ秩序なき列挙から脱却し、整然たる分類と排列を導入した点で《出版統制局》は新たな時代を切り開いたと言っていい。私が籍を置いていた《帝国記録院》も、元を辿れば《出版統制局》と根源を同じくしていた。口を開けば pas か rien と切り捨てた検閲官も、物言わぬ品々に秘められた passé と lien に固執した我々——記録官もまた。
　《出版統制局》が擁する検閲官は《青目》、中でも特に Bibliophilique Mana と呼ばれる魔力を持つ者で統一されていた。彼らはいかにも書物の奴隷だった。彼らは書物を心から愛しながら、公刊を待つ原稿たちに秘められた至高の一語を赤鉛筆で次々と塗り潰していった。それは幼子が愛着のある品を破壊する様にも似ていた。望むと望まないとに関わらず、 そうせざるを得ない状況にある 者たち。《帝国》を飛び交うありとある言葉が検閲に引っ掛かる理由は様々だった。《帝国》に横臥する巨大な権力に反すると一たび認められてしまいさえすれば、それらの文書はたちまち発禁に追い込まれるか、見せしめと称して焚かれる羽目になった。
　すなわち《帝国》は疲弊の途にあったのだ。皇帝の頭上で久しく沈むことのなかった太陽は、まだそうと見えない角度で傾き始めていた。威光の翳りは検閲によって押し留められる他になく、僅かでも気概を残した文士たちの中には検閲の目を掻い潜る手管が生まれ始めていた。往年の劇作家ブレヴァルが、検閲から逃れたいがために加筆した戯曲の幕引きが、どれだけの人を涙させたことだろう？皮肉なことに、法によって律された統制の中でこそ《帝国》の文壇は発展を遂げつつあったのだ。
　——そうしてそのような時代にあって、ひとりの「特級」検閲官がその名を一遍に《帝国》全土に知らしめた。
　この15年近くの間、彼の仕事ぶりは凄まじかった。彼の赤鉛筆、赤インク、赤い封蝋の前には、文士のいかなる手管も通用しなかった。彼の登場によって、王権は否応なしに厳格さを増して文士たちを苦しめた。文字を書く者だけではない。《帝国》中の書物を刷る者、売る者、読む者すべてが大なり小なり何らかの損害を被った。人は、彼には Bibliophilique Mana がないと言う。誰もが言って憚らない。《帝国》中を吹き荒れる焚書の炎がいよいよ形ある肉体を得て、彼という人物をこの世に顕現せしめたと。



　だが私は知っていた。彼の燃え盛る炎の陰に、他ならぬ苦しみがあることを。
　昏い紺碧の瞳の奥に、どこまでも澄んだ青色が広がっていることを。

　この狭いノタウィア・マニスでただひとり、
　彼だけが持つ透徹性を、

　知っていたと——そう信じていたと、言わなければ。
　どうして耐えられるだろう？

　彼は、名をジルと言った。
　検閲官ジル・デュプレ。

　彼は私の友人 だった 。

　かつて私たちは、同じ夢を持つ同志だった。
　成し遂げられると信じて止まない夢だった。

　しかしその夢は、他ならぬ彼によって阻まれ、穢され、地に墜ちた。

　彼だけがひとり、笑って——















　焼け落ちた文字を透かした向こう側。

　払うことの出来ない闇がある。

40cmほどの大きさの人形がゆっくりと二足歩行で近づいてくる。

スカートの裾をつまみ一礼。

首を傾げた人形が急に宙へと持ち上げられる。
つまみ上げたのは、身長は170前後、青髪の耳長。

驚いて上がる顔に、ちょんと膝を折るお辞儀で返す。
もっとも、その足下は貴婦人のドレスには程遠い、アヒルの羽毛と水かきのついた脚であったのだが。

差し出された本に声を弾ませる、が、同時に音立てて垂れ下がる鎖に目を瞬かせる。
鎖が地に落ち汚れてしまわぬよう、本とは逆の、繋がれた先に負担を掛けてしまわぬよう。
そして彼の目にも見やすいように、高めの位置を心がけ、背伸びをしながら本を開く。
見た目とは正反対の、その軽さに助けられながら。

ゆっくりと読み上げるその声に惹かれるようにどこからともなく風が巻き上がり、彼の髪と少女の羽毛を揺らした。