その単語をいつ知ったのかは覚えていない。
　ふと思い出したのだ。丁度"旦那様"の左手の爪を切らせて頂いていた時だった。
　分からない事があれば聞けと、この屋敷に住まう際に"旦那様"が言ったのはしっかり覚えていたので、じゃあ尋ねてみようとも思った。
　"旦那様"が空いている右手で頭を撫でてくれている。ここで質問の為に顔を上げて、気持ち良いご褒美が中断されてしまうのは未練だったが、自分は思った事をすぐ口にしなければ気が済まない……というよりも忘れてしまう性分だと、フロレンス・リリーアンは理解していた。

　フローラが呼びかけると、"旦那様"は珍しく機嫌が良いのか、穏やかに応えた。

　"旦那様"はフローラの馬鹿気た質問を聞き、相手が握っていた爪切りを無言で取り上げた。
　優しい微笑み。床にしゃがみ込んでいたフローラの脇を掬い上げるように立たせ、自らも椅子から立ち上がる。

　フローラもまた無邪気に微笑んでいた。次の瞬間、鋼鉄の塊のような重い拳が自分の腹部にめり込む事も知らずに。
　えずきながら前のめりに倒れそうなところへ、"旦那様"が容赦なく2撃目を打ち込んでくる事も知らずに。

　もしも、フローラが「腹パン」という単語の意味を少しでも推測できていたならば、間違っても"旦那様"に聞こうなどとは思わなかっただろう。
　"旦那様"は所謂クズであった。男の子に女の子の服を着せて、いじめるのが大好きという凄まじいド変態でもあった。
　そんな"旦那様"に、弱っているところを優しくされたという理由で懐いているフローラも、どこか少し世間一般からはズレていた。いや、少しというよりは「かなり」。

　だが、腹パン地獄から生還（気絶して目覚めただけだが）した時、異世界に放りだされていた事には流石のフローラも面食らった。おそらく"旦那様"によるプレイの一環だろう。ゲスの極みである。
　しかし彼はここを、夢の世界だと思う事にしたらしい。夢なら何でもありだよね、と実に前向きな様子。

　フローラは信じているのだ。いつか本当に「目覚めた」時、枕元に"旦那様"がいて、『死に損なったな』と覗き込んでくる事を。

彼女——と、青年は認識している——の姿に、彼はぼそり、そう呟いた。
それから緩か首を傾げ。

そうだったら困るな、と、ひとつ息を吐いて返答を待った。