「星屑の髪飾りを纏う、夜の帳のような———煌めいて、靡く黒髪、けれど　君じゃない」

　澄んだ歌聲。御機嫌な歌聲は軽やかに弾んで、睡れる木々の葉を撫でる。暗闇の中、森の中で一頻り宵闇の歌を奏でる。

「朝露を浴びてなお香る、野ばらのような……艶やかに濡れた唇。けれど　君じゃない」

　枝の迷路をすり抜け、ひるる。と笛を鳴らすよな、つむじの風に紡いだ言の葉を乗せて、ひゅるりらりるら。
　すとん、鬱蒼と茂る地に脚をつけたのは軽やかな音。ゆうら、ゆら。小さく吹いた風に尾を揺らして、一匹の猫が薄明かりを全身に受けて歩み寄る、妖花な偽者のもとへ。

『——…なぁう』

　しなやかな足取りにて、歌に吸い寄せられるように。心地良い音色耳を傾けながら、しなりと偽の足元へと。

「甘い言葉で誘える、賢しい毒蛇のような———しなやかに這う白い指　けれど————」

　偽が手元に置くのは剪定中の花、草、枝、茎。葉。それをもぎ取り、紡いで、接いで、結って、繋いで。紡いだ歌詞のような白。それをも通り越した骨色の指先が剪定を続ける。
　そっと膝の上に下ろして、端と端を摘んで合わせる。花を愛で、食むよに愛撫をするように、優しい手付きで花を《創り出す》。
　いまだ自分の存在に気付かぬことに業を煮やしたのか、偽の足に黒き妖猫は猫拳……猫パンチなる微弱な力量のパンチを突き出す。しばし歌は止まる。

「……うん？」

　すすす。と鳴き聲の方に振り向きて、

「ラウ？　ごめん気付けませんでした。　おなかすいたんですか？　御飯、さっき上げたのに」
『……』

　こくりと細い頸傾げた小ぶりの頭。

『…に』。

　座り込み背筋を伸ばす姿勢。真っ直ぐに見上げた偽者の人の貌と、手を掛けている花をちらちら交互に見遣った。
　紫水晶の色の視線くりりと丸くなった後、そろりそろりと慎重そうな手付きで、剪定していた手を離し、両手の五指をちょんと添えて、

「……にゃー」

　しな垂れた柳の様な横座りの姿勢に、突然立ち上がって悪戯に猫を追い回そうだなんて気配は無く。また敢えて猫に見える様膝の上に添えられた指先も、不躾に猫に差し伸べる様な真似はしない。極力猫に警戒心を抱かせぬ様、自らの無防備さを姿勢で以って主張してみれば、歌聲途切れさせた聲はふと猫の其れを真似て小さく鳴いた。

『………にゃあ』

　たっぷりとした沈黙の後、やや姿勢を正し害意の無いこと示してくれた御人に向けて声を上げれば、かしかしと前脚で顔を洗う動作。
　———全く、己は一体全体何を求められているのだろう、本来猫でない自分は、猫らしい返し方なぞ知らぬ。

「……に、……なァーう」

　ぱっちりと開いた澄んだ紅の眼にて見つめ、とりあえずはともう少しばかり近付く。カリカリ、少しばかり尖った爪と一緒に、前脚の肉球で其の御膝を叩いてみる。
　つまるところ、この猫は暇していたから構って欲しい。それだけである。

「………に」

　四足がてちてちと草を踏むのを見。だんだんと詰められる距離を見。膝の上に乗せられたやわっこい前肢と、僅かに押し出されて覗く薄ら透き通った色の爪の孤を見。

「にゃぅ。…ぅるるるるる」

　にゃんにゃん連呼。見目も実年齡もそろそろ好い年の女が、にゃんにゃんにゃん。手はそぉっと指先を擡げて黒猫の耳下、頬の脇の辺りに近寄せる。

『ぅる…？　……にゃぁ、にゃーあっ』

　何ぞ答えるよに返事をした。次いで添えられた指の感触にひくり、反応を示す。

『に…ぃっ　——…うなーぁ　　…——っ、　…ッ』

　擽ったい。
　ぴくぴくと目元をひくつかせながら、ぞわわと走る刺激と共に毛並みを滑る指がもどかしいよな。
　うぞぞぞぞ。逆立ちかける黒色の毛、でも反面心地良さはあるのか、甘んじていれば時折粟立たせる挙動不審。

「……ッ」

　引き攣る目元。うるると潤む紫水晶。喉を転がす寸前の、擽ったさを堪える細い聲色に、胸の中で赤い実が弾けた。
　多分三つくらい弾けた。

「……あ、あの、…ね、少しだけ……す、少しだけで、いいからっ」

　普段の温和な敬語は何処へやら、心なし崩れた口調。不安定な様相。
　笑みと綻び掛けた貌は薄ら苦みを滲ませて、胸を絞めるときめきの茨に引っ掻かれる苦しさに歪む様。甘く狂おしき切なさを帯びて、恋しき人に浅ましくも愛をねだる懇願めいたもの。
　少しだけ、少しだけと云いながら擽り愛でる指は中々止まらず、遂には両手で頸の辺りをわしゃわしゃしてしまおうとすらした。

『——…っに、　……に、ィ　っっ』

　———自分は頑張った。頑張って耐えていた。ふるると身を強張らせながらも、擽ったさと心地良さに絆されかけ溺れかけ、ぴくり躯を震わすだけで踏ん張った、つもり。
　片耳にて留めた、普段は聞けぬ御人の言葉に怪訝と、其れから可笑しさを覚えつつも突っ込む暇は無し。くぐもった聲は、其のまま行けば全身ごとわしゃわしゃ撫でられたところで抵抗のしようもなかった。
　くすくす、と妖花は笑った。自らと戯れる様子に息をついて見て、俯瞰して。……ふと、思い付いた。”ある”植物の若芽を、最初に会った時と同じように咲かせてみせる。つい、と猫の前に差し出す。
　軽く揺らして待ち構えた芽。じいと観察する眼差しを向けてみる。

『……うなぁ？』

　訝しげな声が上がる。ふらふら、引き寄せられるかのように、御人が差し出してきた植物の芽に、まるで吸い寄せられるが如く。
　すんすんと香吸い込めば、かぷりと徐に咥えた。
　この場合に、本人の意思があまり働いていなかったことを名誉の為に記しておく。

『——ッ　……なっ　…——！！？』

　急性の中毒にでも掛ったかのような、強く揺さぶられる衝撃が全身を駆け巡る。ちかちかと眼は瞬くばかり、先に貰った赤い石南花の香とは段違いの優美で甘美な匂い。

『……に、っ　にふ！　——にゃッ…！　　——…　…なァうっ！』

　語尾に音符でもつけそうな勢いである。
　元気いっぱい、というか、ふらっふら。膝の上で寝そべったまま、ころんと白い芽を転がし突き、戯れる。遊ぶ。弄る。仕草は素晴らしく酔っ払いの行動。
　木天蓼、別名夏梅。俗世的に云えばマタタビと呼ばれる落葉蔓性木本。
　ほんの少しで、物見事に出来上がった茶金の猫がだらけて垂れた姿。貌を見れば一目瞭然な程に緩みきっていた。実にご満悦ながら、時々すりりと押し付け擦るよにして御膝を堪能しているよう。
　尊厳？　何それ美味しいのだろうか状態である。完全な猫化だった。理性の面影すら見当たらぬ。
　まあ、見事というか、なんというか。模範的な食いつきを見せた其れは正しく猫である。

「……あらまあ」

　思わずそんな笑い声を零して。やがてすっかり出来上がった猫をしげしげ眺めてから、くつくつと肩を揺らした。
　眠りも明け、更ける夜にようやく意識を取り戻す猫の姿。それまでは片手で草花の手入れに興じながら、片手で猫をあやすことになった。
　妖猫は覚めた後、マタタビ酔いなどという初体験に興じた事への関心と感心。そしてちょっとした後悔に、何処ぞで打ちひしがれていれば、白き花と共々ひっそり尾っぽを揺らしていたりするのだが、それはまた後日の御話。

そういうと仲間の方を振り向き…

　壁の陰から顔だけを覗かせているその人から、私に向かって声が投げかけられた。
　くるりと振り向いて、笑みかける。言われた言葉について考えたのは、そのあとで。
　空白の間が一拍。

彼女とぶつかったのは持っている袋の中のお菓子を確認し、丁度周囲が見えていない時。

前を向けば小柄な女性が尻餅をついている所だった。

謝る偽に立てるか？と手を差し伸べてみる。

ややうつむき気味になってあなたに向けて耳を差し出します。
差し出した耳はピクピクしています。

　不意に、濃い緑の匂いを感じた。しかし辺りにはそれらしい植物は見当たらない。
　チロリと舌を出し入れし、匂いをもう一度確認すると。感覚は大きなカバンを持った人型へと向く。

　何分種族が異なるためか、人間を外見で区別するのは苦手なようだ。
　しかし植物の香りを纏うならば、日頃から草木に触れ合っているのだろうと判断。何かしら植物に関しての知識を持っているかもしれない。そう考え。

　このトカゲは人間との交流経験が少ない。そのためか、やや警戒しつつの様子だった。

穏やかな笑顔を浮かべ、偽の目線の高さに合わせながら答える。

そういうと偽の頭にぽんぽんと撫でるように手を差し出す。
少しひんやりとしていた感触であった
それは、彼女の戸惑いを見抜いたの如く安心させるための行いであった。