月並みな事を言おう。
「この世界には、魔法が溢れている。」

　十人並みな事を言おう。
「人は必ず死ぬ。」

　在り来りな事を言おう。
「僕は記憶喪失だ。」

　設定を、羅列しよう。
　月並みで。十人並みで。在り来りで。極々普通の、設定を。
「僕はどうやら、吸血鬼であるらしい。」




「えっと……。こっちで良いのかな……？」
　ルリアンナに渡された（押し付けられたとも言う）地図を見ながら、石造りの小道を進んでいく。
　最初は閑散としていた小道も、歩を進める度に広くなっていくように思える。通っている人も増えていき、今ではちょっとしたお祭り騒ぎのような様相を呈していた。
「……人混み、苦手だなぁ」
　思わず、そんな言葉が口をついて出る。
　——この人達は、皆同じ場所へ向かっているのだろうか？
　ぼんやりとそんな事を考えていると、ふいに横から声をかけられた。

「———っと、なぁ、そこの少年。
そんな匂いを漂わせて、一体どこへ行くんだい？」

　声の主は、黒い着流しに身を包んだ赤髪の青年——のように見えるが、そうではない。
　青臭さの感じられぬ、不敵な笑み。容姿こそ未だ年若い風に見えるが、その佇まいは明らかに“青年”などと言う括りが通用する男ではなかった。

「……え、えっと？」
　当然ながら、そのような男に見覚えはない。人違いだろうか？　或いは、僕が覚えていないだけで実は知り合いなのか。
「んーんー……匂いが、混じってる？
いや、良くわからんな……さて、声をかけてしまったし、どうしたものかねぇ」
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ちんぷんかんぷん
　そう言う男の様子は、こちらを知っているようには見えない。だが僕からすれば、その言葉は尚も 理 解 不 能 なものだ。
　仕方なく僕が「すみません、匂いとは何の事でしょうか？」と問うと、男は驚いたように「なんのことだって？　おいおい、冗談だろう？」と返した。
「そう言われましても……」
「さっきあった美しい御嬢さんはもっと上手に消してたぜ？」
　——消してた。
　彼の口ぶりからすると、自分からは何かしら“普通ではない”匂いを発せられているらしい。
「……いや、本当に知らないか。
いやぁ、悪いな。ここは懐かしい匂いが多すぎた」
　匂い。匂い。
　匂い——、血——、異常——。

「少し——浸って——らしい——」
　男が何か言っている。しかし脳髄には靄がかかったような感覚が溢れ、何を言っているのか聞き取れない。

「俺の名前は——きっと——の——」

　立ち尽くす僕。鈍っていく思考。名乗っているようだが聞き取れない。
　血。匂い。匂い。匂い——！

　突如記憶が、フラッシュバックした。

　　　†

「吸血鬼とは言っても、そんなにファンタジーな、“何でも有り”って感じではないのよ？」

　耳に粘り着くような、女の声。
　それは以前僕に“名前を教えて”来たその声と、同一のものだった。

「血液に含まれる成分。私はそれを、オドと呼んでいるわ」
　闇のように深く黒いドレスが、視界の端に映る。声の主が着ている衣服だろうか？

「ええ。アナタの言う通り。そのオドを使って肉体の構成・再編成を行うのが、吸血鬼の能力」
「或いは、〈別の世界〉にでも行く事が出来れば、もっと普通じゃない吸血鬼も居るのかもしれないけれど——」

　こほん、と、一つ咳払いが聞こえる。
「——あぁ。吸血鬼の判別方法、だったわね？　簡単よ。吸血鬼からは、血の匂いがするわ。それも、乾いたような、しかしとても色濃い——血の匂いが」

　　　†

　——とん。
　僕の意識を覚醒させたのは、肩に走った疼痛だった。
「おい、そんな所に突っ立ってると邪魔だぞ」
「あ、すみません……」
　ぼんやりとした意識のまま、ゆっくりと通行人に頭を下げる。
　ずきずきと肩を苛む痛み。それ程強くぶつかられた訳ではないようだが——。
「——あぁ。あの時の、か」
　あの時——ラルフのタックルにより受けた傷が、まだ治り切っていないのだろう。手で肩を抑えながら、きょろきょろと周囲を見渡す。
「ん……」
　先程声をかけてきた男は既に姿を消していた。後半はマトモな受け答えが出来ていた自信も無いので、呆れ返らせてしまわずに済めば良いのだが。
（……まあ。考えても、仕方ないか）
　再び人の波に沿って、流れるように進んでいく。考えても仕方のない事は、考えても仕方ないのだ。

「ちょっと、アナタ？」
　また、見知らぬ声色の誰かに話しかけられる。今度は横ではなく、背後から。
「ん——わっ！？」
　強く肩を掴まれ、無理矢理に振り向かされる。不思議と肩は痛まず、妙に距離の近い女性の顔が、目に映った。
「時間はあるかしら？」
　そう言った女性は、銀色の長髪に、胸元の紅い宝石が印象的な美人だった。
　——身も凍るような美しさ。僕の前に立っていたのは、そんな形容の似合う女性だった。
「え、えっと……まあ、はい」
　僕がそう答えると、まるで値踏みするように、こちらを眺めてくる。
「……アナタ、血の匂いがするわね。それも、強く」
　思わず、一歩身じろぐ。
　——匂い。
　先程出会った男にも言われた、その言葉。先程、記憶の中でも聞いたその言葉。
　あまりに、共通し過ぎている。
「えっと、あの……？」
　しかし、血の匂いというだけなら、然程おかしな話でもなかった。ラルフとの戦闘中、確かに僕は武器を通して血に触れていたからだ。
　それは当然の事だ。だから何もおかしくなど——

「さて、見るからに暇そうな——吸血鬼のアナタ」
「——っ！」
　僕の淡い期待は、そんな一言によって打ち砕かれる。どうやら僕は、吸血鬼らしい。
「あの、僕は——「私の仕事の手伝い、してくれるわよね」

　銀髪の女性によって、打ち消される疑問。
　……。
　…………仕事？

「給料とか休暇とかそういうことは全てここに書いてあるから、後はアナタが印を押せば完成よ」
　あれ。僕はこの人と、知り合いか何かだったのだろうか？
　普通。見ず知らずの人（人ではなく吸血鬼だが）に対し、契約書を突き付けるなどと言う事はしない。
「仕事とは一体……？」
　僕が疑問を発すると、銀髪の女性は僕に向け、掌を重ねる。触れる柔らかな指先の感触に、思考が固まってしまう。
「ということで——」
　くい、と手を引かれる。妙な気恥ずかしさを感じながら、されるがままに腕を動かしていると——
「——よろしく頼むわ」
　僕は契約書に、判を押させられていた。あれ、今僕、詐欺に引っかかっているんじゃ。

　　　†

　僕はどうやら、〈企業連合〉なる組織に雇われる身となったらしい。
　ネロ（銀髪の女性の名前らしい。本名かどうかも怪しいものだが）によると、あの契約書は“雇用主に絶対服従”という恐ろしいものであったらしい。魔術様式の編み込まれた書類である為、逆らおうとすると酷い事になるとか。
「まぁ、目的も無いし構わないんだけどね……」
　幸いなのは、彼女も目的が“一揆に参加するつもりである”点だろうか。一揆そのものの是非はともかく、〈魔王〉とまで呼ばれる存在については、少しだけ興味があった。

「さて、それではよろしくお願いしますわ？」
　ネロが集めて来たのだろう、協力者の一人に声をかけられる。
　話に聞いていた協力者は二人——レーネフィア・ディ・ステラと、風斬東と言う名前だと言う。
　“アズマ”という名は男に使われる名前だと考えられるから、眼前の彼女——継ぎ接ぎだらけのドレスに身を纏った女性は、レーネフィアの方だろう。
「あ、どうも。……ミラルカです。ちょっと記憶喪失だったりしますが、足手纏いにはならないよう気を付けます」
　僕はそう言って頭を下げる。
「……え、記憶喪失？」
　日常では余り耳にする事はないであろう、その単語。レーネフィアは暫し呆気に取られていたが、少しすると凛とした表情を取り戻した。
「……ま、まあ、気にする事はありません。
私はちゃんと面倒を見る方ですわよ？」
　身なりこそ貧相な色を帯びていたが、レーネフィアもまた美しく、その言葉や立ち振舞いは唯の一般市民とは違う事を感じさせた。

「——くははっ、ああ。やっぱり御嬢さんとは、少年とは。不思議な縁を感じたわけだ」

　声。僕とレーネフィアは同時に、驚いたように振り返る。
　紅い髪に、蒼い瞳。そして何より、神をも恐れぬであろう堂々たる佇まいが目に入る。

　レーネフィアやネロも、上に立つ者としては相応以上の資質を秘めているように思えるが。まさしく“王”のそれである振る舞いが出来る男。一見ただの青年のようで、その実とてもそうは見えないその男。

「改めて名乗らせてもらおう。俺の名前は——風斬東」

　——このような男は、忘れられるとは思えない。
　記憶喪失の自分でさえ、そう感じた。