[ 自動書記文箭の記録より ]

「あなた、それが気になりますか？」

女性の声だった。凛とした声に丁寧な口調。
それなのに、背中にゾクリと冷たいものを感じた。
冷たい。冷たい。——なぜだか分からない、一瞬の恐怖。
表現上の汗が伝っては消え、伝っては消える。長い時間硬直していたようだが、おそらくは唯の数秒に過ぎない。
己はゆっくりと振り返る。
その、声の主を、見る。

赤い夕焼けを背景に、黒と深紅のドレスに身を包んだ女性が立っていた。どこか、貴族の風格を漂わせている女性。
金髪に碧眼と、己も見た事のある“外国人”の特徴を兼ね揃えている。
風が彼女の長い髪の毛を弄んだ。ザザ、と黒い木々が揺れた。その音はラジオのノイズのようで、いやに不安を掻き立てる。彼女は顔に掛かる髪を片手で押さえ、それでもこちらを見ていた。
己は、単に一人の女性を見つめているだけだろう？　それなのに、どうしてこうも恐怖を抱くのか。分からない。
恐怖？　畏怖？　分からない。

目の前の女性は、どうして口許だけが笑っているのだろう。

「あなた、名前は何と仰るのでしょう？」
「僕は——」

言いかけた時、彼女は自らの口許に手を当てた。あら、と小さく声が漏れる。

「人に物を尋ねる時は、自分から名乗るのが“普通”でしょうか」

妙に引っ掛かる物言いだった。何か、己が先に名乗るべきであると思わせるような——。
急に、恐れの正体が分かった。——威圧感だ！　何だろうと必死に考えたけれど、これは威圧感だ。彼女は立って微笑んでいる、それだけだというのに。

「そこに書いてあるように、私はエルザと申します。エルザ・フォン・アーレンベルク。あなたは？」
「僕は文箭と申します」

己はハンチングを脱いで一礼すると、エルザなる女性は笑みをより一層深いものにした。

「よろしければ、私と一緒に来ませんか？」

彼女は手を差し出す。夕日を背にした彼女の手は、黒と赤で彩られていた。
もう一度風が吹く。エルザは今度は髪を押さえはしなかった。風にされるがままになっている。多分、右手が己に差し出されたままになっているからだ。
己は片手でハンチングを被りなおすと、その右手を恭しく取った。——冷たい手だった。

「良かった。上手く集まるかどうかと思っていたところなんですよ」
「そうですか……あの、僕はあまり御役に立てないかもしれませんよ。それでも？」
「大丈夫ですよ。4人集まれば大抵の事はなんとかなります」

今度はにこりと微笑んでみせた。美しい笑顔なのだけれど、どうしても違和感が拭えない。いやな先入観を持ってしまったものだ。
エルザは見たところ、細い。腕も体も——先程握った手も柔らかく、とても戦いに向いた体をしているとは思えない。一体どうやって戦うのだろうか。

「少し歩いた所に、荷物を置いてあるんですよ。私はここで誰かが来るのを見張っていますから、その間の見張りを御願いしても宜しいでしょうか」
「ええ、構いませんよ」
「じゃあ、案内します」

彼女が背を向けた時、揺れた金髪が光を帯びた。
急に、メディアの柔らかな髪が脳裡を過ぎる。——そう言えば、彼女も華奢な体で戦っていた。
となれば、エルザは魔術師か何かだろうか？　金髪碧眼から想像するのは安易かもしれないが、欧州には今でも魔術結社やなにやらあるという噂がある。彼女がそれに所属している者だとしてもおかしくない。
毅然として歩く姿は、御伽噺の女王などを彷彿とさせるけれど。

「文箭さん？」
「ああ、すみません。安堵感から、少し呆けていました」
「そうですか。手を取り合った以上、はぐれてしまうのは困ります」

それだけを言うと、エルザはまた歩き出した。己も慌ててそれについて行く。
ふと、古びた小屋を振り返る。壁に留められた羊皮紙。ナイフに突き刺され、壁に貼り付けられた物が目に映る。
不意に痛みがチクリと胸を刺した気がした。
どうしてだろう。自らにあれが突き立てられる錯覚が——胸を過ぎったのだ。





日没後、貼り紙を見た全員が結集した。己以外は全て女性である。見事に仲間はずれにされた気分を味わった。
適当な場所に野営を決め、それぞれが自己紹介を始める。

前髪を切り揃えた金髪に赤い目のアイリスは、銃を使うという。その銃には妖精が居り、それぞれラブとピースと名乗った。賑やかなものである。
妖精が宿るとあり、唯の銃使いではないのだろう。問うてみると、これが魔術の一つであると答えられた。曰く、魔銃を扱う事により、魔術を弾丸として扱う。魔術にも色々種類があるようで、大変興味をそそられる。
こういう話を聴くと、海外に興味が湧くのだが、残念ながらパスポートが発行できない身分であるため——いいや、こうして異世界で他国の人間と接触できるのは、ありがたい事だろう。
ところで、エルザもアイリスも金髪で、過去に共に旅をしたメディアも金髪だった。変に金髪の女性に縁がある。異世界というのはそういうものなのだろうか。
もう一人は野良と教であった。（野良には正式な名前が無いのだが、利便性のため野良と表記する）教は己と同じように“喋る本”だ。しかし形態はあくまで書物であり、野良が持ち運ぶ事が前提となっている。
袴を着用している点から、彼女は己と同じく日本からやって来たものと思われる。どうやら化け猫のようであるが、己の知人の化け猫と違い猫らしさはあまり感じさせない。
猫は——書物に乗っかるのはまだ良いとしても、齧ったり破ったり小便をかけたりといった行為に及ぶので、実は少し苦手だ。野良は教を大事そうに持っているので、この旅で己の認識が改まれば良いと思っている。

「さて、明日は平原に参りましょうか」

そう切り出したのはエルザであった。
夕飯時。皆それぞれ持って来ていた食材を寄せ集めて作った飯を食べている時の事である。
平原は最も安全な地帯で、獰猛な生物が潜んでいる可能性は低いそうだ。確か、セルフォリーフも同じようなものだった。タワシが飛んでいた。
これに異論を出す者は居なかった。己は、水辺以外ならばまあ良いと思っている。砂地もあまり好ましくはないが。
アイリスは平静を保った表情を崩さず、静かに飯を食べている。野良はといえば、楽しそうに飯を掻き込んで、おかわりまでしていた。口許に飯粒がついている。
エルザは野営というのに、どこからか椅子と机を持ち出し、銀食器を用いて上品に食べていた。やはり、立ち振る舞いや服装から察した通り、彼女はどこかの貴族なのではなかろうか。しかも、一番食べ終わるのが遅かった。本当に遅かった。
皆が食事をとっている中、己だけは飯を食っていなかった。食欲が無いと言って断ったのである。食物を口にできない身だと、こういう時に困る。以前もそれで悩んでいたのだったか。
早い内に自分の事を打ち明けておくのが楽なのだ。啓も「異世界なら何でも許される」と言っていた事だし——。唯、タイミングが掴めないだけで。
明日に備え、今晩は早く眠る事となった。安全な地帯だとエルザが保証したため、火の番は置かず灯りは全て消された。
しかし、己は眠る振りをして、じっと火の消えた跡を見ていた。





翌朝からは、平原地帯へ足を運んだ。
平原は兎に角広い。爽やかな風が、脛の辺りまで伸びた草花の匂いを運ぶ。
己が出発したのは湿気の多い夏の頃であるが、この辺りは湿気をあまり感じず、心地の良い感覚が体を包んでいた。
けれども油断をしてはならない。セルフォリーフでも、夜にタワシが突然飛んでぶつかって来たのである。
アイリスが注意深く周囲を窺っているのに対し、エルザは最前列を淡々と歩いている。野良は教と何か話しているようだ。
己は彼女等の後方に居ながら、右手の中のトランクケースを意識した。
この中に己のエンブリオが入っているかと思うと——一体どのように作用するのか、皆目見当もつかない。

不意にエルザが己を振り返った。やはり口許だけ笑っていて、嘲笑されているような気分がした。
「先に行ってて下さい」と言い、アイリスと野良を先へと促す。野良は「分かったなー」と言いながら走り去る。アイリスは怪訝そうな表情をこちらへやってから、すぐに興味を失ったらしく野良の後を追った。
最前列を歩いていたはずのエルザが、こちらへ歩いてくる。サク、サク。彼女に踏まれた草花が、音を立てて捻じ曲がっていく。

「狩り、ですよ」
「え？」
「大丈夫ですか？　やれそうですか？」
「狩り——」

己は寸の間逡巡する。狩りというのは、基本的には対象物を追いたて捕らえる事だ。
つまり、エルザは、こう言いたいのだ。

——敵を見つけたら、刃を突きつけられる前に首を刎ね落とせ！　迷う必要は、どこにも無い！

エルザは己の目を覗き込むと、軽く鼻で笑い、二人が居る方向へと歩いて行った。
野良が明るく呼ぶ声がする。“獲物”を見つけたのだろう。


己には、立ち竦んでいる時間など無かった。
メルンテーゼの風が、己のコートをはためかせて吹き抜けた。

後ろからふらふらと飛んできた青白い妖精が、
身勝手にもフードの中にぽふりと軟着陸してきた。
旧い家特有の黴の匂いが落ち着くらしく、うとうととまどろんでいる。
……しかしこの妖精、本質は大量のガラスの破片である。
あなたはこの迷惑ながらくたを払い落としてもいいし、そのまま放っておいてもいい。
もちろん、話しかけてみるのもあなたの自由だ。

あなたの足元へ、豚のような動物がやってきた。フゴフゴと鼻を動かし、あなたのにおいを嗅いでいる。

別に何かをされたわけではなかったが、背中まで下ろした長い黒髪に、パリッと着こなしたスーツが特徴的な長身の女性が、あなたに駆け寄るなり謝ってきた。

子供さながらの笑顔で感謝した。

彼は何の気なしに尋ねてみた。

名前を呼ばれて振り返り、文箭の顔を見ると途端にぱっと笑顔になった

　　　　　　ふいに、つい、と髪に隠れた目を示す。

ムツ は 伸ばした手を噛もうとした…が

叫び声に邪魔されたので、肩から飛び立った

暫し視線を合わせ、どことなく尊大さを感じさせる微笑を浮かべた。

男は笑顔を崩さずぺちりと己の額を叩く。

もみ手の見本にもなりかねない手の動きを見せると大きくお辞儀をした。死角になった眼からは一瞬だけ笑みが消え。

変わっている、といわれ自分の身なりを点検するように見て