Thanks!【エレイン（107）、チドリ（557）、クロム（750）】



　　　　　　　　　　　　　「言葉が通じるか不安？
　　　　　　　　　　　　　　知あるものにだけ話しかければいい」

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　———— 本質言語の講義にて



駆け込みで探した宿は上等なものだった。正確に言うならば、上等ゆえに敬遠されていたらしい宿だ。
借りた部屋はほぼベッドで占拠されてはいるが清潔で、空調も効いており冒険者のような身分では文字通りに勿体無い。
何よりも入浴設備があった。バスタブこそ簡易で小さめだが清潔に維持されている。

お湯と冷水の入った水差し、茶葉が少量。歯磨きの類らしきものが二つ。ベッドは恐らく羽毛が入っているし枕や敷布も清潔。
女性の目からもそれは明らかで女王陛下は早速脚を投げ出して楽にしている。
藁のベッドで全裸で眠るような文化度を想像していたことは失礼に当たるだろう。
食事の類は一階に行かなければならないが充分すぎる。

自分も服を楽にし、荷物から酒肴を出していると浴室のドアが開いた。顔を出したのは袖を捲った小柄な少女。
最初に契約したエンブリオ、エンジェル。その中でも少女のような姿を持つ。
付けてやったヴィンテという愛称が気に入っているらしい。淡い空色のワンピースをハタハタと揺らして手を振る。

白い翼を羽ばたかせ、ふわりと飛んで寄ってくるヴィンテは躾けられた通りに着替えを手伝い始めた。
人の世話をすることに何の躊躇いもない。聞くところによるとエンブリオは戦闘には参加しないはずだが。
それを聞いたところ『戦闘ではないから良いっのです！』という身も蓋もない元気な答えが戻ってきたのは記憶に新しい。

屈託の無い笑顔に澄んだ瞳。甘えん坊という領域を飛び越えた馴れ馴れしさにももう慣れた。
二人がかりで頭を撫でてやると犬か猫のように手のひらへ頬を擦りつけてくる。
まるで、どころではなく愛玩動物の扱いだが本人は満足しているようだった。



冷えた空気がまだ残る時間。心地良い風を感じながら指定された場所に佇んでいた。
数歩先には武器を下ろしたコノエと構えを解いたラルフが居る。
一人きりのスタンディングオベーションが鼓膜を揺らした。

親指を立てて見せるラルフにコノエは小さく笑う。このタイプにしては物分かりが良いと思っているのかもしれない。
肩を力強く叩いてくる大男を軽く引き剥がしている所に近づいた。すぐさま姿勢を正し臣下の礼をとるコノエ。
水が落ちるように流れた銀髪に指を通す。軽く掻き上げ、頬に触れると礼を解いた。
一連の動作をラルフが不思議そうに見ている。

ぜい、ぜいと肩で息をしながら全力で否定されてもコノエのからかうような目は変わらない。
真面目に応対する気のない態度にどっと疲れが出たのか、急に肩を落としたラルフは片手を軽く上げて背を向けた。
別れの挨拶である。挨拶もそこそこだけれど、彼は今日中に残り1910人と戦わなければならないのだ。ご愁傷様。
コノエの目が私に問いかける。頷き、それを許可した。

不可視の術を解かれたヴィンテがラルフに突撃する。両膝を突き出すように脚を曲げ、重力を無視した疾風の膝蹴り。
かくして、腰の窪みに強かにぶち当たった少女の膝は大男を撃沈するに至った。
膝をつきドラマチックに倒れこむラルフ。遠目に治癒術が行き渡ったのを感じ取り私達はその場を後にした。
待ち合わせまでにはまだ時間がある。昼食前のティータイムの場所を探しに行くのだ。



昨日の昼間に見つけた丁度いい目印の店。派手な看板を掲げたそこはエレインと出会った宿に近かった。
宿場街は日も高いせいか人影も無く見通しが良い。件の宿が遠目に確認できる程しか離れていないのだが行き違いも困る。
そういった理由もあり、女王陛下には組み立て式の椅子で休んで貰いながら横に控えていた。
道すがら買ったレモンらしき匂いのする物の炭酸を女王陛下に差し出す。ありがとう、と向けられる笑顔に感じる確かな充足。
喉を鳴らす姿を見ながら自分もささやかに喉を潤していると不意に空気がざわめいた。遠くから怒声が聞こえてくる。

言うが早いか左手に力を集中させる。先の戦闘とは違う術式を用いて魔刃を具現化させた。
赤い小さなナイフは瞬く間に溶け、地に融け込み、強靭な綱となり走ってきた不届き者を捉える。
そのまま足首を捻り上げ勢い良く逆方向に投げ飛ばす。風を切る音が辺りに鈍く響いた。
声もなく飛んでいく不届き者。溢れる荷物。質素な袋は寸分違わず私の手の中へと落ちてくる。

数秒の後に息を切らして走ってきたのは少年らしさが抜け切らない青年だった。背中に長物を括りつけている。
まず間違いなくこの荷物の持ち主だろう。不届き者から荷物が落ちるのを見て荷物の方を選んだらしい。
そしてその荷物が赤の他人の手の中に再び移動していることが不思議でならないようだ。

泣きつかんばかりの勢いである。別にこんな荷物に興味も湧かないのだがあることが閃いた。
そっと女王陛下を伺うと同じ事を考えていたらしく軽く頷かれる。使えるものは使う主義だ。

荷物を軽く持ち上げてみせる。それだけで何を想像したのか搾られるような悲鳴を上げる青年。
こういうのは騙されやすい人種だ。何せ騙さずとも騙されてくれる。
エレインのような芯が強そうなタイプでもなく、どこまでも弱い。

噂をすればチドリとエレインが現れた。青年もそちらを向く。
昨日は無かった顔に首を傾げるエレイン。対するチドリは女王陛下の飲み物に興味を示して迫っている。

つい、とエレインが杖を振る。鈍く風を切る音が重量を物語っているが足腰はびくともしない。
芯の強そうな目が私を見た。どうやら引く気は無いらしい。同時にちらちらと翼に視線が行く。
『酒ではない』の一言でチドリを撃退した女王陛下はお前が決めろと目で語っていた。

斧使いが一人。杖使いが一人。魔刃使いが一人。
そして、長物使いらしい青年が一人。

打ちひしがれている青年を尻目に私達は歩き出す。
渡されたネクターがほんの少し伸びた気がした。

辺りに響く声、声、声。広庭と呼ばれる場所にはかなりの影が集まっていた。
そこで飛び交う様々な言葉たちの意味が理解できる。何の苦労もなく。
騎士には不思議極まりない現象である。幾度か他の世界に出かけたことはあるが、その時はせいぜい二言語だった。
話せば誤解なく伝わるし、同時に二つ程度なら聞く側でも処理できる。しかし、今は何十という言語が飛び交っているはずなのだ。

『聞く側』としての能力というのは『言語と意味を理解できているかどうか』に拠る。
誤解なく伝えられる言語を持っていても、誤解なく聞き取れる耳を持っているかは別である。

逆に言えば文字を、言葉を持たない者には意味が無い。喜怒哀楽は高度な知能にのみ許されるものだ。
簡単な構造をしているものたちに複雑な感情など必要ないのである。
嘆き悲しみながら増殖する単細胞生物がいるだろうか？
いるかもしれないが、人間が比喩で使う『単細胞』ならば長時間嘆き悲しむことはないのではないだろうか。

エンブリオは非常に簡単にできている。生命力とネクターがあれば誰にでも力を貸す。平等に、例外なく。
エンブリオは便利な道具で、一揆はそれを奪われることへの怒り。彼らはそう認識していた。