隻眼六翼の天使は謳った——
《死者から生まれた不要の怪物。寄る辺なきを代償に、自由を持つ六臂の蜘蛛よ》
《人は生まれた時から己を持つわけではない。名前のように容易に、個は完成しない》
《その八眼で世界を見よ。新しい世界に生まれた孤独な怪物であるならば……》

世界の境界線というのは曖昧だ。殊にすべてが破壊されてしまえば、残るは真っ平らな大地だけ。
道中には見るものもなく、聴くものもない。
ただ大地に這いつくばる死者の欠片を踏みしめて、未だ妄執で戦う同胞を葬ることだけ。
国も人も殆ど滅んでしまった世界で、ここが何処であるかなど考えることもなく、時間の感覚もなく、ただ彷徨っていた。
この世界を旅することで「何を得る」ことができるというのか、不毛なものを感じながらも、どうせ還る場所も無い。
尽きる命も持っていない。だから時間だけが莫大に、膨大にある。
惰性で前へ前へと進むだけ——その時のあの一歩も、それだった。

音も光も無い。ただ一歩、いつものように足を前に出しただけだ。そうして、世界は転じた。

——最初に感じられたのは、空気の健やかさだった。
箱庭の外へ出でてから、ついに聞こえなかった水のせせらぎ、木々を揺らす風、そして生命の香り。
百余年続いた戦争で大地は荒廃しきり、死者すら腐らせる毒ガスの中に生まれた私はそれがなんであるのか、脳裡にある知識と照合することもままならぬほど驚いた。
《次元というのは時に容易にねじ曲がり、新しい世界を拓き旅人を飲み込む》
《ただし戻る方法は……》
懐かしい声が知識を反復する。眉唾物の《設定》だったが、なるほど、起こってしまえばそんなものかと腑に落ちた。
特別なことなど何も無い、これは必然の道のりなのだろう。
清浄な空気の気配にマスクを取るかと一瞬考えたが、もはやコレは顔の一部のような気がして——端的に言えば面倒だった。
生きている大地を踏みしめると、芳香が漂う。恐らくこの世界に生きているものには解らないであろう、仄かで何事も無い匂いだ。腐った肉の匂いも、よどんだ血の刺すような匂いもしない。
暫くゆっくりと試すように歩き回り、奥の方に拓けた場所があることに気付く。そして、複数の気配を。額の瞳がそれらをしっかりと捉えた。
……そして、まあまあ、驚いた。

——自分は生まれた世界において、ふたつとない異形だったのだが、出会ったものたちは知らぬ姿形のものが多かった。
無論、物語の中で語られるような存在として認識しており、信じられぬとは言わぬ。
獣の耳をはやすなどの観賞用の屍人形は何体か見たことがある。一番多いのは天使の形状だったが——まあ、それでもそういう形に生まれた種をこの目で確認する日が来ようとは。
我ながら単純であるが、この世界でなら《得るもの》もあるのではないか……。
頭の片隅にそんな期待を抱いた事実に驚嘆しつつ、平凡な、しかしいつもとは異なる一歩を、彼らと共に踏み出す。


■余談
そういえば先程、後ろの手が捕まえた「奇妙な生物」は何だったのだろう。靄がかかった虫のような、と思ったが握った途端姿の認識ができなくなった。
掌をこわごわ開いてみるが、なんとそれは消えていた——よくよくみれば、掌の赤い瞳の瞳孔が増えている。

そいつは口が無いので、私の脳裡に思念を送る事しか出来ないようだ。
聴いたところ、これはエンブリオというものらしい。

何か間違いでは無いかと思わず思い切り拳を握ると、頭の中に悲鳴が響く。これはこれで不愉快だな、と思う。

そして気付く。こいつと会話すると盛大な独り言になってしまうな、と……。

さて、この世界で強くなるためにはこの喧しい同居人が増えていくという事になるのか、思うと少しだけ憂鬱である。

（自己紹介のつもりらしい）

（一瞬、何か見えました）

イドを見るなり、目を大きくさせ

　律儀な性分だな。今後同行する相手を内心でそう評していると、食育という単語が出る。
　一見、どんな料理を作るのか見当もつかないが、外見のみで多くを判断するのも失礼だろう。

　——背後の空間で、ガリガリと起動音が鳴り響く。
　虚空に形成される幾何学の紋様が、朽ちた壁画の如く剥がれ落ち。
　生温い排気と共に、身の丈を越す銃器状の物体が、そこに顕現する——