男 ━ クラガドラシアはこれまで生きてきた人生で一番混乱していた。
まず、突然現れたこの犬、というにはあまりにも弊害がありそうだが、これを言い表す適切な言葉を持ち合わせてはいなかった。
全ての災厄の原因はこの真っ黒な獣だ。
こいつに噛まれた箇所は、もう随分前からあるかのような刺青が浮いていた。
不気味な炎のようなその模様は文字のようにも見えるが、生憎とクラガドラシアは文字を読む教育を受けたことがなく、またその辺りの学で理解できるような文字でもなかった。
獣はニヤニヤと笑みを深めながら、クラガドラシアの後についてくる。

獣との会話は一方的に不利だと感じたクラガドラシアは沈黙した。
混乱の原因として、次にこのネクターだ。
ルリアンナとラルフ、彼らがくれると言うので仕方なく両手に抱えていたのだが、クラガドラシアには不要のものであった。
彼にはエンブリオはいないし、必要だとも思わなかった。
そうして生きてきたからだ。


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話は数十年に遡るが、クラガドラシアは辺境の名も無き集落で贄の子として生まれた。
村の古くからの掟で、5年に一度子供が大地へと捧げられ、日頃の恵みに感謝するのだ。
彼は15歳になるまで村で大切に育てられ、そして15歳の誕生日に村の外の石碑の前に捧げられた。
物心つく頃からそうなることは聞かされていたので、泣くことも恨むことも無く一晩をそこで過ごした。
その後は好きに生きていい、そういう決まりだった。

けれど、彼にはすることも、目的も思い浮かばなかった。
だからただなんとなく、あちらこちらをふらふらとしていた。
いつかどこかでひっそりと死ぬのも運命なのかもしれない、と。


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この邂逅は彼にとって不幸としか思えない出来事であった。
戦が始まることはなんとなく知っていた。
けれど、それに参加する理由が彼にはない。
自分とは無関係ならば、ここにとどまる必要も無い。
明日にはまたどこかへ発とうと思っていたのだ。

傍らでそれを聞いていた真っ黒な獣は、何が面白いのかその鋭い目を細め、にんまりと笑った。

生まれてこの方、感じたことも無い絶望をクラガドラシアは感じていた。

男はゆるりと視線を向けただけで、すぐにまたどこかを向いてしまった。

のろのろと顔を上げるクラガの腕から赤黒い焔が立ち上る。それは獣へと姿を変え、具現化した。