風が吹き抜けた。
　城門を前に男が対峙している。二人ともかなりの長身だが、一人は細身、もう一人は岩山のように鍛え上げられた筋肉で上半身が盛り上がっている。細身の男はくつろいだ様子で立ちつくし、白いケープが風になびくままにさせていた。体格の良い男は良く日に焼けた筋肉を緊張させ、拳を胸の前で構え半身の姿勢で腰を落としていた。

「ヤレヤレ、メンドクセェなァ……ホントにヤる気かよ？」

　棒立ちのままでアイヴォリーは目の前の男、ラルフに聞いた。無駄なのは分かっている。何を言っても“この手合い”には通じない。それでも聞かざるを得なかった。

「手加減なんて生意気なことすんなよ？」

　確かに、この男のいうことは正しい。世界を渡ってきたばかりのアイヴォリーは、その副作用で思ったように身体が動かない。ラルフを侮って手を抜けば自分が手痛い目に遭うことだろう。

「ッ、仕方ねェな。
　──我が導き手、我が守護者……──」

　吐き捨てるようにいうと、アイヴォリーは静かに人の言葉ではない言語で何かを呟きだした。その発音は流暢で、音節は流れる水のせせらぎか森の葉擦れを思わせる。どこか自然の優しさを思わせる美しい言語だった。
　一揆というこの反乱の喧騒にどこか澱んだ風が、そのときだけ森の香りを帯びた。
　その風に立ち向かうように、ラルフはアイヴォリーに身体ごと突っ込んできた。

「ッ！」

　横に飛んで避けようとしたアイヴォリーがその体当たりを躱し切れずに揺らぐ。すぐに足元の鞘からダガーを抜き放ち、その勢いのままに斬りつける。だが崩れた体勢からはなった一撃はラルフまで届かない。

「イツまで踊り続けられるかねェ、面白ェケドよ。」

　口元の皮肉な笑みはそのままで、アイヴォリーは状況にもかかわらずそう呟いた。そういう男なのだ。敵に対して常に皮肉な笑みを絶やさず、余裕を見せる。それが彼のスタイルだった。



　世界を渡って冒険をする探索者と呼ばれる職業が成り立つのには理由がある。ひとつには、失われるものが限られていること。技量や鍛錬などから得られる強さは失われるが、その知識までは奪われない。つまり、身体が忘れてしまってもそれが出来る、ということは本人の知識として残るのだ。無論、世界ごとの決まり事、“理”と彼らが呼ぶ法則によっては通用しなくなる知識もある。それでも、自らで築き上げた独自のやり方を再び確立することが出来ればその世界でも同じように立ち回ることが出来る。それは一般的にいう知性系の職業に限らず、全てのクラスにいえることだ。そしてもうひとつ、失ったものを取り戻す速度が速いことがある。世界を渡る際に失われた能力は、彼らが別の世界で鍛え上げたところまでは比較的早く取り戻すことが出来る。培った技術や鍛錬は彼らがあった場所までは戻るのだ。
　このふたつの現象によって探索者は比較的容易に世界を渡ることが出来る。さらに、複数の理での自分のやり方を応用することでまだ自分が経験していない世界にも対応できるようになっていく。似たような法則を見つけることで結果を想像出来るからだ。
　その点アイヴォリーは探索者の中でも恵まれていた。皮肉にも彼が習得した暗殺者の知識というものは非常に多岐に渡る。潜入するための技術は元より、潜入中に相手を欺くための技術、その国や地方の知識。さらには人体の構造や毒薬に対する“殺しの”知識。知っていなくてはならないことが多いために彼に蓄えられた知識は膨大なものだった。錠前を見れば似たような鍵からその構造は大まかに想像出来るし、自然の中、人工物の中のどちらであってもそれを利用した罠は似通ってくる。良く似た言語があれば知らない言葉でも断片的に意味を汲み取ることは不可能ではない。伝説にはよくある共通点が存在するし宗教にしてもそれは同じだ。
　もう一つ、幸運にも彼が恵まれていたのは彼の能力の一部が特性として弱体化しない部類のものだったことによる。どれも暗殺者としての利点をもたらすもので、それは先天的なものもあれば訓練の過程で身に付けたものもある。利き腕を持たず両手を同じように器用に使いこなせることや一度記憶したことを忘れないという人並み外れた記憶力。毒への耐性や高い視力に至るまで、これらの特性は才能として、ものによって時にはある程度減衰されることはあっても失われることはなかった。
　だが、何よりも彼に備わっている能力の中で有効に機能するのは“慎重さ”だった。恐らくそれは、彼に限らず盗賊と呼ばれるクラスに属する者たちが最も必要とする能力で、それが足りない者から命を落としていく。幸運は予想もしない形で自らを助けてくれることもあるが、それはあくまでも慎重に行動した上での話だ。育て上げた人間を使い捨てることも厭わない、そんな暗殺者の任務の中で自分が生き残るために一番必要なこと、それをアイヴォリーは熟知していた。



　ラルフと対峙している間もアイヴォリーは慎重だった。彼が発する調子に乗った挑発まがいの言葉とは裏腹に。自分がレベルドレイン、世界を渡った際の副作用で弱体化していることを知っていた彼は、今の自分がラルフの突撃を躱せないことも理解していた。だから相手の出方を見極めながら被害を最小限に抑えるように、相手の勢いを受け流して致命的な一撃をもらわないように立ち回っていたのだ。無理な姿勢から放つ反撃も、武器を持たないラルフが自分の間合いの内側に入った状態から追撃してくるのを未然に阻止するための攻撃だった。
　何度かタックルを受けてやり過ごす、という繰り返しを経た後でアイヴォリーはそろそろ決着をつけることにした。このラルフという男、全く本気を出していない。彼にとってこの一連のやり取りは恐らく挨拶のようなものなのだ。自分たちの呼びかけに応じてやってきた探索者が、無謀な進撃によって命を落としたりそれに近しい状況に陥らずに済む程度に、つまり最低限の自衛が出来るかどうかを計っているのだろう、とアイヴォリーは理解した。
　これで何度目か、ラルフが再び身体ごとぶつかってくる。それまでの立ち回りとは少しだけ間合いを変え、アイヴォリーはそれまでよりもしっかりと衝撃を受け止める。その寸前、相手の鳩尾の高さで両手を組み合わせ、肘をとがらせて相手へと向けた。
　自らの勢いを利用されて肘を叩き込まれたラルフが片膝をつく。簡単なカウンターだが効果は十二分にあったようだ。そのまま滑るようにして低い姿勢で相手の胸元へと飛び込み、アイヴォリーはラルフの顎に鈍らな切っ先を突きつけた。

「オッサン、コレでチェックメイトな。」

　特に感慨もなく雑談でもするような調子でラルフに一方的に勝利を告げると、アイヴォリーはすぐにダガーの切っ先を引いた。彼の手の中には最初から何もなかったかのように、一瞬でその小ぶりなダガーは彼の手の中から姿を消す。その様子を見ると、ラルフは立ち上がって構えを解き拍手を始めた。



「よゥメイリー、ソッチは大丈夫だったか？」

　ようやくこの揉め事に参加する資格を認められてからラルフと赤毛の少女に別れを告げ、アイヴォリーは相方の妖精の姿を群集の中から探し出した。彼女も同じように彼らの洗礼を受けたのだろう。久し振りの戦いに若干感情が高ぶっている。

「こっちはぜんっぜん大丈夫よ？
　アイこそ怪我とかしなかった？」

　何度かラルフの体当たりを受けたせいで、多少の傷がない訳ではない。だが、アイヴォリーは元より彼とともに普段から探索者として戦う彼女にしても、この程度は怪我の内にも入らなかった。

「ヤレヤレ……じゃ、ソロソロお城の中へとマイリましょうかねェ？」

　気障ったらしく上品な仕草で片腕を彼女に差し出すアイヴォリー。外見が外見だけに服装がしっかりしていればそれなりに見えるのかも知れないが、今のアイヴォリーの格好でそんなことをされても冗談にしか見えない。だが相方の妖精は上機嫌で彼の腕を取ると、彼と二人で仲睦まじく城門を抜けて行った。

（両手をいっぱいに広げてくるくるとはしゃぎ回っている）