ある所に、強大な力を持つ九尾の妖狐がいた。
宮殿のような社に住むその妖狐は、命と引き換えにあらゆる願いを叶える者として、恐れられ、そして崇められていた。

願いの対価はどのような物でもいいというわけではなかった。
自らの命を代償に、娘の不治の病を癒してもらった男がいた。
大勢の奴隷の命を代償に、数多の富を手中に収めんとし、九尾の逆鱗に触れ苦悶の末死した商人がいた。
差し出す命が供物自身の意思でなければならないという、ただ一つのルールがあった。


それは妖狐の社に程近い、とある村の物語。
「ならば村のため、喜んで命を投げ打つ者を育てよう」と、誰かが言った。
反対する者がいないわけではなかったその計画は、やがて実行に移される。

その少女は、実の親が誰なのかすらわからなかった。
自分は人ですらなく、村の平和と繁栄のためにある、道具なのだと教えられ、それでも少女は笑っていた。
初穂と名付けられた少女は、そう教えられたからなのか、元来そういう性格だったのか、優しく献身的な娘に育った。
自分の生きる理由は、皆を幸せにすることなのだ。
悪意と欺瞞の渦の中で、少女はそう言って、本心からの笑みを絶やさなかった。


ある時、初穂の住む村は大規模な不作に見舞われた。
その翌年、翌々年と不作は続き、村の蓄えは底をつきはじめていた。

今こそ初穂がその役目を果たす時だと、誰かが言った。
やはり可哀想だと言う者もいたが、それ以上に引き止める者はいなかった。
皆、家族があるのだ。
それを持たない初穂一人の命で村が救われるというのなら、仕方のないことである。

「ああ、こんな私でも、ようやく村の皆のお役にたてる」
嬉しそうに笑う初穂を妖狐の社に送り出し、村の皆は安堵に胸を撫で下ろした。
これできっと、この村は救われる。
上手くいったら、次の生贄を育てよう。
初穂の身を案ずる言葉を口にする者は、既に一人もいなかった。


「よいか。村の皆の幸せを、九尾の狐に願うのじゃぞ」
「はい。皆の幸せが、私の幸せですから」
着いた社の入り口で村長に最後の念を押され、初穂は浮くような足取りで死地へと向かった。
鳥居をひとつ潜り、ふたつ潜り、狐面の従者たちに誘われるまま、社の主の元へと向かう。

村一番の大きな家より、更に二回りは大きな建物の奥に、その妖狐は座っていた。
妙齢の美女という呼び方が相応しい、艶やかな姿の着物姿の女性。
烏の濡羽色の髪から飛び出る狐の耳と、生き物のようにしゅるしゅると蠢く九つの尾。
「あなたが九尾の妖狐様……ですね？」
「酔狂よなぁ」
金色の扇で口元を隠し、妖狐は退屈そうに返事ではない言葉を呟いた。
「安寧の対価に人の願いを叶える……などと言わねばよかった。そこな娘よ、お前も死にに来たのかえ？」
獣のような縦長の瞳で見据えられ、しかし初穂は怯むことなく笑顔で言った。
「はい。私の命は村の皆のためにあるものですから」
予想だにしない返答に、妖狐は値踏みするようにじっくりと初穂を見つめ、愉快そうに笑った。
「ふぅむ、本心に偽りはないようじゃ。聞くだけでも願いとやらを聞いてやろう」
「ありがとうございます。これで私も役目を果たせます」
「とはいえ——」
ぱたんと扇を閉じ、妖狐はゆっくりと立ち上がった。
「そのような歪な自我なぞ、妾が喰らうに値せぬ。人間とは誠に下衆な生き物よのう」
言葉の意味がわからず首を傾げる初穂に、妖狐は新しい玩具を手に入れた子供のような笑顔を見せる。
「捨てる命を妾が拾うてやろうと言うのじゃ。妾好みの姿に産まれた事を天に感謝するがよい。壊れぬ程度に愛でてやろう」
妖しげな手つきで初穂の頬を撫で、再び妖狐は腰を下ろした。
「さて、ならば願いを言うがよい。まだ叶えるとは決まっておらぬがの」
「あ、はい」
思い浮かべていたものと違う妖狐の態度に戸惑った初穂だが、すぐにその役目を思い出す。
「私の願いは、村の皆が幸せになることです」
その願いを聞いた妖狐は眉を顰めた。
「それではわからぬ。幸せの形など曖昧なものじゃ。お前にとっての幸せとは何なのか、言うてみい」
尋ねられ、初穂は笑顔で答えた。
「妖狐様の供物になることがこの世で何よりの幸せなのだと、村ではそう教えられてきました」
不思議な物でも見るような顔をする妖狐に、初穂は言葉を続ける。
「村は不作で困っています。けれども、どうせ願いを叶えてもらうのであれば、皆が一番幸せになるのが一番ですよね」
それは悪意の中で芽生えた、純粋な善意からの願いだった。
「なので、村の皆を私のように、妖狐様への供物に捧げる。これが私の願いです」
呆気に取られたような妖狐の表情が、笑みへと変わる。
「くはははははっ！」
妖狐はひとしきり笑った後、にやりと口の端を吊り上げ、言った。
「よかろう。その願い、聞き届けたぞ」



初穂が産まれた村がその後どうなったのか、記録はどこにも残されていない。
　

そういうと、ラーフィーは一人の人物のもとに駆け寄った。