疑問に思いさえしなければ、当たり前だと思ったままでいられる。
　それが幸か不幸かは、誰にも分からないし、当人にしか決められない。
　世の中には知らない方がいいことだってあるのだ。
　全てを知ることが——真実を知ることが、決して幸せだとは限らない。
　しかしアムルイは、きっと知りたがりと呼ばれる人種に違いなかった。

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　王城を目指して旅を続けるアムルイは、道中、いくつかの村や町に宿泊した。
　できるだけ先を急ぎたくあったし、野宿も別に苦ではない。
　それでも宿泊することを選んだのは、そもそも最初の里で無知を痛感したからだった。
　例えば部族の仲間から持たされた毛皮を、路銀に変えるべく売ろうとしたのが、彼女は毛皮の適正価格を知らなかった。
　毛皮を売った相手——雑貨屋の店主は、悪い人物だったとは思わない。
　ただしそれは、毛皮の価値さえ知らないアムルイの、無知で未熟な見立てだ。
　表面だけ善人のように振る舞い、安く買い叩かれた可能性は否定できない。
　そう、毛皮だけでこの有様だ。
　物の売買に限らず、様々な知識がアムルイには欠けており、常識的な作法や流儀すら持ち得ない。
　今は定住民の暮らしや文化について、僅かずつでも積極的に学んでいかなければならないと判断した。
　何せ倒すべきは定住民の王。
　狩猟の作法として、獲物の暮らしを知らずに獲物を狩ることはできないのだ。
　ここ数日はそうして失敗を繰り返しながら、渡り歩いて来た。
　どうやら自分の懐は寒いらしい——そんな金銭感覚も身につき始めた頃だ。
　アムルイはその日立ち寄った宿で、不思議な話を耳にした。

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　その宿は酒場と宿を兼ねた、一般的な造りの宿だった。
　一階が酒場で、二階が客室。酒場は宿泊客に限らず、地元の人間も利用しているようだ。
　日が沈んだ後まで起きている習慣のないアムルイではあるが、定住民はそうではないと、もう分かっている。
　なるべくは周囲に合わせておこうと、今日も酒場で食事を取ったのは日が沈んでからだ。
　旅に出た当初は初めて口にする料理ばかりで好奇心を刺激されたが、すぐに自分の舌に合わないことを理解した。
　何せ定住民の料理は、どれもこれも味が舌の上で弾けて、文字通りに刺激が強過ぎる。
　外界との交流が殆どない山の暮らしでは、香辛料なんてものは口にする機会さえなかったのだ。
　定住民の料理にも慣れないといけないなぁ、と思いつつ、アムルイは黒パンと豆のスープを食べる。
　この組み合わせはどこで注文しても食べられて、まあ美味しいと思える無難なメニューである。
　ちぎった黒パンをスープに浸しながら食べていると、やや荒く宿の戸を開ける音がした。
　何だろう、と振り返ってみると、そこには鎧を着込み、日に焼けた肌を持つ、いかにも戦士といった風情の男がいた。

「よう、部屋は空いてるか？」

　ぶっきらぼうな口調で店主に問いかける男。
　店主は空き部屋があることを伝え、先に食事にするかどうかを確認する。
　男はカウンター席に腰を下ろし、アムルイでは食べ切れないような量の料理を注文した。
　そんなに食べられるのかなぁ、と。なんとなく、アムルイは男を観察した。
　年齢は30を超えているだろう——戦いを生業としているのなら、食欲が衰えるような年齢ではない。
　体格も申し分なく、鍛え上げられた筋肉の上には適度な量の脂肪が乗っている。
　確かにあれならば、少々の旅歩きの疲れは意にも介さず、とにかく空腹を満たそうとするだろう。
　そんな結論を出したところで、何か違和感がある、とアムルイは思う。
　具体的に何がおかしいとは言えない。男の雰囲気に違和感を覚えたとしか言えない。
　だが、これは理屈を必要としない直感的なものだ。
　あの男は何かが違う——アムルイはそう感じたのだ。

　食事を続けながら、アムルイは悟られないように男を観察し続けた。
　外見から分かることは、もう何もない。
　強いて言うならば鎧には細かな傷が無数にあり、補修したらしい痕跡もあることから、歴戦の勇士なのだろう。
　食事の作法については……人のことをとやかく言えた身ではないが、アムルイと大差がない。
　もっとも、全ての定住民が行儀良いわけではない、ということはもう分かっている。
　育ちや本人の性格、あるいは身分によって、定住民の食事の作法は違ってくる。
　男のそれはやや下品と言えるものであったが、問題になるほどでもないだろう。
　ただ、ひとつだけ不思議な点があった。
　こういう店で食事を頼めば、ナイフなどの食器は店側が用意してくれる。
　しかし男はそれを使わず、腰に吊るしていた大振りのナイフで食事をする。
　そのナイフは明らかに食器用ではなく、武器として用いられることを前提としたものだ。
　アムルイは自分が知らないだけで、そういう作法もあるのだろうか、と考えていたが————。
　男の食事の仕方を見て、店主が男に声をかけた。

「お客さん、珍しい食べ方をするね。ひょっとして異世界から？」

「おう、やっぱ分かるか。ヴァスコニアってところからな」

　異世界————。
　唐突に、しかし当たり前のように語られた言葉に、アムルイは混乱した。
　異世界？　何だそれは？　世界というのは、他にもあるのだろうか？　それとも何か、別の地域を指すのだろうか？
　そんなアムルイの様子に気付かず、男はナイフを店主に見せながら笑う。

「ヴァスコニアじゃ、みんな自分のナイフを持ってるもんさ。
　肉だの何だのを切り分けちゃ、突き刺して食うんだよ」

「なるほどねぇ。で、お客さんも例の一揆に？」

「ああ。そのために召喚されたらしいんでな」

　そこまで聞いて、いよいよアムルイは確信する。
　店主が当たり前のように受け入れているのだから、これは珍しくも何ともない出来事で。
　この世界では、“異世界から召喚された人物”は当たり前のように存在するらしい。

「————————」

　そう。そこまで確信して、アムルイは愕然とした。
　自分はこの世界の、そしてこの国の名前さえ知らない。
　倒すべき新王の名前すら、知らないことに気付いていなかったのだ。

（私は——本当にそんなことも知らないんだ。
　私だけじゃない。部族のみんなも、知らないことを疑問に思ってさえいない）

　疑問に思わなければ。
　山で生きるだけならば、それらは必要のない知識かもしれない。
　けれどアムルイは疑問を覚え、知らないことを知ってしまった。
　最早、その知識は彼女に引き返すことを許さない。
　真実を知ることが、決して幸せなことではないとしても。
　知らないでいることは、もう我慢がならないのだ————。

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　数日後。
　王城前に辿り着いたアムルイは、そこでルリアンナとラルフに出会った。
　まずは力試しとばかりに、断る暇もなくラルフと戦うことになったが、きっと手加減してくれたのだろう。
　ラルフには危なげなく勝利を収め、アムルイは晴れて一揆の一員となった。

　不慣れな人相手の戦いを終えて、額に浮かんだ汗を拭う。
　そうしていると、ルリアンナとラルフの会話が聞こえてきた。

「パパの行動力とママの分析力を兼ね合わせた、プレミアムブレンドガールに死角はないわッ！！」

「明らかに親父の血が濃そうだが……。
　少しは母親の大人しさが欲しかっ——」

「——黙れおっさん。さぁ次いくからねッ！！
　魔王パラダイス討伐への道は険しいのだ！！」

　魔王。魔王、パラダイス。
　知らず、アムルイはその名を呟いていた。
　その名を知らないことを知り、知りたいと思った名前。
　呟いた響きには、僅かな喜びの感情が込められていた————。