虫が鳴いていた。聴いたことがないような音色だった。
虫の鳴き声ということが何故分かったのだろうと私は考える。

私は独自の記憶を保たない。
私はエンブリオと呼ばれる、この世界の根源から「ある経路」を辿って表出する存在らしい。
エンブリオは経路を辿る過程で変容し、烙印を押され、条件付けを施される。
私はアニマと呼称されるエンブリオだ。
だが、他の多くのアニマとはいささか違った性質を持つらしい。

私は、気がつけばこのベロニカという人間——バルシェという女性に顔をいじくられて涙目になっている——の
左拳に宿っていた。
私もベロニカも、特にお互いを意識して選んだ訳ではない。気がつけばこうなっていた。
おまけに、私は私の意志をベロニカに伝えることができない。
声帯を間借りして喋ることは出来るのだが、発声の過程でベロニカにとって意味を成さない文字列になってしまうらしい。
ただ、なんとなくは伝わっているらしいのでそう悲観することも無いようだ。

ラルフという人間と模擬戦のようなものを行った後、
ベロニカはバルシェと行動を共にしている。
旧来の知己のようなのだが、やり取りはどうにもちぐはぐだ。
お互いに腹を探り合っているようにも見えるが、よくは分からない。ただ、行動の主導権はバルシェが握っているようだ。
ベロニカの記憶を読むことが出来ればよいのだが、記憶野に侵入すると泥濘に足を取られたように私の歩みは遅くなる。
読み取れたのは幾つかの断片的な情景と、単語のみだった。

焦る必要はない。
やれることを理解して、やりたいかどうかを考えて、やればいいのだ。

二人は市場を周りながら、それとなく辺りを観察している。
定期的にベロニカの素行をバルシェが修正している。
言動や、歩き方といった私から見れば些細なことがどうも意に沿わないようだ。
なんどか臀部に細かな打撃を入れられ、その度にベロニカは名状しがたき悲鳴を上げている。

バルシェという女性はどうにもよく分からない。
非常に人間社会において好ましい性格や外見をしている（相対する人間の反応からそれが読み取れる）のだが、
どこか油断できない雰囲気を纏っている。
ただしそれは私がベロニカの中に「入っている」からかもしれない。
現状、私は完全な客観はおろか、主観さえも持ち得ない。
すべてはベロニカというフィルター越しに私の中に流れてくる。

ベロニカは、右目を通してバルシェを見ている事が多い。

（剣から無数の血管が腕に延びるようなおぞましい錯覚）

（剣を鞘にゆっくりと納めると、絶叫が静かに現れて消える）

（剣から無数の血管が腕に延びるようなおぞましい錯覚）

左拳にゴユゴユと押し付けてみる。

左拳にスモスモと押し付けてみる。