———物哀しげなひぐらしの鳴き声が、耳に付く。

「……いたい」

否応でも眼に付くのは、掌から溢れ出るものの赤さ。傍らの肩には赤々しく咲いた大輪の蔓薔薇。容赦のない鋭利な棘が、城に備え付けられた窓から輝きを伴う。
溢れる血が流れる元の指を口に含んで、唾液を塗して舌を這わせる。舌を打てば水音が弾けてまざり、ほんのわずかな反芻を伴う。
鉄の味を口いっぱいに与える。さもそれとて、すぐに鉄の味にも飽きてしまった。それでもなお止まらない血液を流水にて流す心算で。

開いていた調理場に忍び込み、佇んだ深緋は水甕を開き、小さめの桶に汲み置かれた水を移す。
移し終えた水の中に赤い手を潜り込ませれば、夏の気温でぬるまった水の感触が裂けた肉に直接触れて、悪態を洩らしていた唇から悲鳴が零れ掛ける。

「……良い子にしてないと、ダメです……よ」

水は忽ちに赤に染まる。呼応も揺れることもしない、意志を伝えられぬ蔓薔薇はそよそよと揺れるばかり。
綺麗に貫かれた掌から絶え間無く溢れ出る赤色を、うとうとと眺める紫水晶の眸は、何処かうつろげ。
揺らめく瞳は色を失う。濯ぎながらも心此処に在らず。

「——……呼び声が、する」

ちゃぷん、と水音。傷を濯いだ指で、傷に触れる。撫でる。爪を……立てる。

「誰の聲か……分からない。とても素敵なはずなのに」

赫い水面が煌く。

「でも……嫌いだもん」

血が滲む。水の中に滲む。

「……あんな聲、嫌いっ…大嫌いっ…」

滲み出した赤い血が、水とまじわって朱となる。すっかり鮮血に染まりきった朱の水の中に、緋色の黄昏の色が零れ落ちては紅に。

「嫌い、嫌い嫌いっ…大嫌いッ！」

強く強く頭を振り払って、脳裏に掠めた優しい嘘の聲を掻き消す。殊更に強く吐き捨てて腕を持ち上げ水を叩き付ければ、振動でずれた桶が流し台に転がって引っ繰り返った。
赤と透明色の混濁した液体が流しにぶちまけられ、悲しい擬音が甲高く響いた。

「……っ…ハァ、…ッ」

息を切らし、桶からぶちまけられた赫を眺めて、…そしてふと我に返り。

「……何してるんだろ」

冷静さを取り戻して、そうして最初に感じた心地は、自らを慰める事の、虚しさ。
この世界に来てから得てきた不安と焦燥を、忌む愚かさ。

「——ばかみたい。……というか、…莫迦……です」

何一人で云っちゃってるんだろって。自分で自分を嘲笑って、再び桶に水を汲み直す。
あらかた傷を濯ぎ終えて包帯を巻くと、待ってもらっている仲間の元へと向かっていく—————。

ルリアンナさんに連れられ、一人の少女があなた達の所にやってくる。
ごそごそとリュックからツボを取り出し、中の液体を掬って差し出す。

少女の謝る声に、それまで気づいていなかった帽子の少女が振り向く。
謝られる理由に心当たりは無かったが、次の言葉で、大体の流れは理解した。

小柄な少女が目を閉じてふらふらと歩いてくる。
歩いてきて、歩いてきて、

そのままぶつかった。

わたわたと少女は腰を折る。どこかの世界の島国でよく見た仕草。

少女は困ったように周囲を見渡した。

パーティーに合流したのは丸い耳が頭についた少女。
自己紹介とともに手を差し出します。

あまりにも見事な転倒を前に、思わず、助け起こすのも忘れて数秒間動きを止めていた。が、気を取り直して手を差し伸べる。

問いかける声は幼子にかけるそれであり、心配そうな眼が偽を覗き込む。
実年齢はさておいて、彼女はどうも、偽の事を幼い子供として扱うつもりのようだ。

まだこの世界に来たばかりの少女は、慣れない街中で道がよくわからずに戸惑っている様子だった。ほんの少し眉尻を下げて、辺りを見回して、と、そこで。

自分に視線を送るその姿に気づく。自分を見ているのか、それともはたまた違う何かを見ているのか。その判断は出来なかったが、ああ、そうだ。と何かを思って、その姿に歩みを寄せる。

そこまで話したところで、漸く彼女の足元に居た猫の姿に気付く。少し目を瞠って、手を伸ばそうとして、でもやっぱりやめた。勝手に人の猫に触っちゃいけない気がして。

唐突に話しかけられた先、少女を見返して暫しの沈黙。
……否、そう長い沈黙ではない。
ただこの青年の、どこか重々しい静謐な雰囲気が、その沈黙を実際のそれより長く感じさせただけで。

問いをかける。
ある意味遠慮容赦もない。しどろもどろな少女の、その目を真正面から。
色の違う双眸が見つめている。

　こつん、と何かぶつかる感触。見れば、鞄、とそれを持つ少女。

　そう言うも、目の前の少女は慌てふためいていた。