失うものなど何もない。そうきっぱりと口にした、あの3年前の日を思い出す。失うものなど何もなかった。あのかつての美しかった日々もまた。世界にくちづけし、世界に愛され、そのために啼き続けた日々。世界の愛の、一番高みで、一番端で。
彼女は空を仰ぐ。青い空。水色の、滲んだような、雲の境目の曖昧な。鳥の飛ぶ姿は見えない。そして彼女は荘園を一歩踏み出す。ヒールが柔らかく耕された黒土に刻み付ける。やがてそこに種が撒かれるのならいずれは花が咲く。その花の色を彼女は恐らく知ることはない。籠の世界のことを、鳥は終ぞ知りはしない。

この荘園の入り口、黒い花——ノールの咲き乱れる花畑で、あの日彼女は眠っていた。青空の抜けるタカージュドールから“羽ばたいて”、やがては蝋の溶けた翼が導いたのはメルンテーゼの元素と運命づけられた己の腐敗。鳥籠から逃げた愛しい小鳥を呪う世界の意志。


肌が粟立つ。己が幾年も見てきた、老いた小鳥が彼女の指先に止まってゆく。吐いた血は、夜に在って月に照らされこの上なく美しかったが、同時に激しく甘酸っぱく——傷んだ果物に似た匂いを地に繋ぐ。身体の中がすさまじい速度で劣化してゆくのを感じた。己の肌に——枯れつつある己の肌に触れることなど出来なかった。身体を焼く熱に瞼を縫いとめられながら朦朧とした視界で見た己の手は、刻々と張りを失い水気を垂れ流し、そしてその大地に風化した川を刻もうと、し、て————

叫んだ。
半狂乱になりながら、ただただ、息を吸う間にも死と老化という未来へ進んでゆく己の身体を引き戻したくて、取り戻したくて、死ぬのであれば、このような形で、指先に止まった鳥、太陽に焼かれて、どうして、誰か、わたしを籠に、橙の、いえ黄金の



（おねがい）

（《—————》）



風が花を揺らしながら王城に向いて吹いている。失うものなど何もない。彼女はそう叫び、彼女はエンブリオに認められ、そして今、美を謳歌している。美しくのどかに、これ以上に無い蠱惑の黒の花の香りと共に。その花びらをくちに含んでこのまま倒れてしまいたい。どこにもゆけない代わりに、どこにもゆかないでいい。それは彼女にとって甘美な夢だ。けれどノールの力は歪で、そしてそこから生まれる白の精製された甘美な砂糖に似たその粒子もまだ彼女の求めたものには不十分すぎる。

何もないではなかった。差し出したものがある。もう金の鳥籠に戻れないのであれば、その世界の愛を打ち砕くのも躊躇うではなかった。自らの身体の中に潜む虚ろに思いを馳せ、そして　オルガと共に生活するこの数年の中にその自らの失ったものを見ないではなかった。紅の咲く花を、彼女の内なる神は、あらたな彼女を愛する神は好みはしない。だから彼女にはその美は、訪れはしないのだ。そしてまた、彼女のその美を継ぐものも、また同じく。

失うものなど、何もなかった。なかったのだった。今の彼女には己の一部を捧げてでも失えないただひとつのものがあり、そのためだけに彼女は生かされていた。生きているのか、生かされているのかもわからない。生きていたかったわけでもない。生命よりも重く、彼女には失えないものがあった。それを護るためであれば、彼女には本当に心からあらゆる犠牲を躊躇わず、悼むこともなく、両手の花を全て擲って、そのたったひとつを彼女の細い指で絡め取ることを、した。爪先で揺れる花、青のアコニト。その指先に宿り香る、彼女を貶める毒の切っ先。

風が吹いている。彼女の金の睫毛が薄らと瞬く。現れた蒼の視線は真っ直ぐと、ただ王城とそこにゆく人の流れを眺めた。艶然と、あらゆる恐怖を退けて。
それこそが彼女が護りたかった、唯一失えなかったもの。腐敗を運命づける未来など彼女は求めていなかった。永遠に過去を押し留め、望む限りに美しく、現在を凍結して。細胞を瞬きさえも追いつかない速度で食い荒らす、小鳥を愛する世界の意志を内包しながら。

失うものなど、何もなかった。
失うものなど、何もない。
ただひとつ、己の美を除いては。
その代償が、何であっても。