いまや男の目前には、夥しい数の不幸が折り重なって朽ちていた。

　彼の家は代々、広々と横たわる荘園を持ち、これを受け継いできた。はじめは住むものとてなく、ただ森と草原の入り混じるばかりだったこの場所に、いつからともなく一人の男が住み着いたのが始まりだった。
　荘園は王や貴族たちの腕からわずかに切り離されており、代々の荘園主はそれらの血筋をはるか上とするものたちに、何を差し出す必要もなかった。
　高貴な人びとは彼らから、彼らの持つものを遠ざけられることを——それを取り上げられ、二度と手に入らなくなることを恐れたのである。
　この荘園一帯だけに、ある奇妙な草が育ったゆえに。
　それは人々の間で《病除けの霊草》として珍重された——ときに驚くほどの高値で捌かれ、男の一族は巷に疫病の蔓延るたびに豊かになっていった。《霊草》はじつによく効いた、数十年にもわたって、人々から持て囃されるほどには。《霊草》はいくらもあったものの、その値は次第に吊り上ってゆき、やがて富を持つものの手にしか渡らなくなっていった。
　《霊草》の正しい手入れの仕方は荘園に住む一族しか知らず、その霊験を生じるためには、何か秘儀のようなものがあるに違いないと、人々は噂した。
　そして長らく、男の一族はそうした思いこみを有り難く利用してきた。
　ひどく簡単なことだった。ただ口を噤んでいればいいのだから。
　ここまでお話すれば、もうお分かりかも知れない。いまとなっては何もかもがその臓腑を晒している。
　有り体に言うならば、そこに、特別なことなど何一つなかった。
　この地に住み始めたある男、一族の祖となった男を別として、もはや誰も、真剣に土地の管理さえしなかったのである。
　最後の数代に至っては、草の面倒など見もしなかった。
　ただ手持ちのエンブリオたちに、荘園で起こることのありとあることを任せ、自分たちは日々の暮らしを愉しむことと、その華々しい豊かさを生み出す算段のことばかりで頭を満たした。そして適度な不幸が、村や町に襲いかかってくれることばかりを。どれほどひどい病が起こっても、彼ら自身は《霊草》によって、誰より手厚く守られている。どんな不安も憂いもありはしない。
　取り交わされる植物と黄金——そこにいくらも生えているただの草が、いつでも驚くほどの高値で売れた。これほど楽な人生もそうあるまい。一族のものは幸福だった、荘園の外でどれほどの人々が苦しみながら死に、弔うものもなく腐り落ちていったところで、知ったことではなかった。気の毒に思う気持ちはあっても、それはどこか遠くへ切り離された、非現実のなかに埋もれているのだった。光の輪郭をなぞるばかりの影のように。
　ところがある日、奇妙なことが起きた。
　これまでならば何遍でも、どんな病でも退けてきたはずの神秘の《霊草》、その夥しく生える場所のただなかで、他ならぬ荘園の主人の末息子が病に侵されたのである。
　病状は深刻なものだった。立ち歩けないほどの熱と咳、強い眩暈。時折手のひらで両目を覆うような仕草をする。誰もが疑いもしなかったせいで、気づいたときにはもはや手遅れ。熱が出てから数日と経たずに、子供は死んだ。
　呆然とする主人の目の前で、次には妻が発病した。
　次は長男。
　その次は娘。
　三人とも、命を落とすまでそう長くはかからなかった。
　最後に残った娘は痛々しい空咳をくり返しながら虚空を掻くように指先を曲げ、死ぬのはいや、と熱に浮いた声で囁き、それきり息をするのを止めた。
　土地中の《霊草》を掻き集めても、この病を退けることは敵わなかった。
　あとにはただ一人、荘園の主人だけが残される。
　もはや、彼の元には何もなかった。
　家族は死に、数代にわたって金を産んだ《霊草》も、いまやただの草に過ぎない。そこにあると信じられていたものは霧のように跡形なく消えていた。確かに力を持っていようとも。一家を襲った不幸の正体を知ると、人々は皆一様に手のひらを返した。周囲の誰も彼を顧みることはなかった。
　人々は荘園に近づくことさえ厭うようになり、共同の墓所に遺体を葬ることも拒んだ。窓も扉も、目につく戸は何もかもが鎖されていた。
　そうして男はたった一人で、長い時間をかけ、広い荘園の端々に、いまや変わり果てた姿をした家族の身体を埋めて回った。
　いまや彼の従える一体の案山子の他に、すべてのエンブリオは逃げ出したあと。
　満足に手入れもされない荒れた土は、かたく、乾いていた。

　それからどれほど経ったか分からない。
　数年後のようにも思えたが、飲まず食わずのまま呆然と生きていたことを考えれば、ほんの数時間後のことだったのかも知れない。
　気付けば、彼の足元に奇妙に暗い影が落ちていた。
　景色のなかに落ちた染みのようなそれは、彼の見る前で次第に拡がり、膨れていった。やがて寝台に力なく横たわる彼の身の上へせり上がるように嵩を増した暗闇は、何かを待っているように鎌首をもたげた——待っている。果たして何を？　闇はやがて、少しの沈黙ののち、恐るべき速さで彼の身体に喰らいついた。
　形のない咢に噛み砕かれながら、彼はぼんやりと考える、ああ、何が奇妙だったと言って、いまは夜なのだから。
　そこに影の見えるはずはなかったのだ。





　外へと続く道のあちこちに、点々と、蛾や蝶、蜂の死骸が落ちている。
　辺り一面に咲くのは黒い花。
　花弁は置き去りにされた闇夜のような黒をして、月光にも似た花柱を風に揺らしている。
　誰も知らず、呼ばれもしなかったこの花に、オルガは《ノール》と名をつけた。
　それは彼がやってくるまで、この地のどこにも存在しない花だった。
　とりとめもなく歩きながら、彼は、地面に痙攣しながら落ちている、まだ死んでいない蛾を摘み上げる。
　小さく何かの歯が噛み合うような音が聞こえ、そして死にかけの蛾は姿を消した。
　無知なままの鳥や獣、虫をいくら喰ったところで、そこから目を得ることはできない。必要なのはまず何よりも思考するものたちの眼球、血と肉、そして骨だった。
　触れることは知っている。聴くことは何度もくり返した。
　けれど光を知ることはできない。
　前を行くひとつの足音を追って、彼はゆっくりと歩く。背後からまたひとつの足音が、何か不安事でも残していたかのように、いささか遅れてついてくる。夜と朝の娘たち——そのどちらも、それぞれの視覚に、彼の知らない輝きを覚えているはずだった。彼がこれまで一度として理解したことのないものを。
　果たして彼女たちはどのように光を視ているのだろう。誰一人として一致することはない、歪の鏡の水上に。
　彼のなかに、二人の目を手に入れたいという望みがないではない。
　娘らの眼球をとって噛み砕き、飲み下したあとに訪れる光はどのようなものだろう。　

　やがて外へと歩くうち、オルガやフィガロたちの話していたように、そして彼がその言葉を聴いていたように、そこに待っているものがあることを知った。こちらへ流れてくる風が、分厚く幅広の背に塞がれて二つに裂けている。”腕試し”。けれど何を試すというのだろう。いずれにしても、それらはどのみち揮われる力なのだから。
　彼は歩きながら——少なくとも前進はしながら、自分の伸ばす手と腕、指先の並びに不都合のないこと、その正しい配列を曖昧に確かめた。己の属する力を示すために。
　それは常に光の当たらぬ場所に隠され、仕舞われている。
　彼女らの言う争い、一揆、そうした物事についてはさて置いても、人の多い場所へ出てゆくことは苦ではなかった。そこには必ず他者がいる。眼を持つものが。そこには彼が得るべき何者かの光があるだろう。

異形の少女はその言葉にハッとする。視界の中にあった白い影を、改めて見やり、観察する。

続きの言葉を少し躊躇い、しかしそれを口にする。長身の男の顔を、見上げるようにして。